正月の正体。
24年前の12月30日は、学生時代の友人の通夜だった。そして、2012年は再び近しい人の通夜だった。クリスマスの夕方、亡くなったという彼女は、仏教徒だったから、クリスマスとは無縁だったかもしれない。かつては同じ志のもと、活動を共にした。長い療養生活を経たのちの訃報をどのように伝えるべきか。哀しいことに、かつての同志の訃報を主だった人に伝えなおかつセレモニーにも配慮する立場にあった。ずっと見送る者でいたから、そこのところはほどなくして内々にけりを付けた。要は遺された人々が不快に思わなければよいのだ。花を手向けるために因果を含めてあれこれ申し出てみたら、それなりに配慮した対応をしてくれた。でも、故人に対する思いは、会場を埋め尽くしてもいいくらいだよね。その辺りはおとなの判断さ。あるMLには思いがけない方々からの哀悼メッセージが連なり。それでいて、私が知らないことは何もなく。そうやって2012年は暮れた。なにより、死を誰よりも恐れた故人が安らかであることが大事。そして遺族が納得出来るセレモニーであること。それらが満たされた後に、ようやく偲ぶことが出来る。まあ、そんな年の瀬ではあったな。思い出すことは数限りなくある。何度も書いたことも含まれる。ああ、やられた!と思わないでもないが、死に時は選べないよね。それでも、多分故人は思いを遺さずことなく往けたのだろうと思う。あとは、あなたたちに任せた。任された者どものみがそれを知っている。だから重い、けどね。おそらく、遺された者が総動員されたってこの国ではいつ叶えられるかどうかわからない望み。次代に引き継ぐよ。休みなのに、休めなかったのは、現世で生きる者たちに尽くした正。というのが、日本の正月の正体か?