小さな組織から社会が見える
気がかりが多くて眠れない夜の連続ツイート。貼り付けておきます。テーマは、小さな組織から社会が見える。人には夜なべはさせたくないが、自分は平気というか、必要ならやってしまう。ま、そうやって来たから、これからも体力が続く限りは変わらんだろう。しかし、それでいろいろ誤解されてきたことに対しては、修正してもらうべく密かに闘っているのだった。言えば、なんでもやってくれるとは、もう思われたくない。相手にもよるけどね。ただ、お金を出し渋っているくせに、感情的になった勢いで、「お金を払ってでも」と言われると、気持ちがなえる。たぶん、その一言でこころが折れた。上手く利用されてるだけなんだなあって思った。大切なことは、つねに感謝の気持ちを忘れないことだな。まともな報酬の基準を知っているか知らないかの違いではないんだ。本当に路頭に迷っている人々を助けようと頑張ってきたのは知ってる。でも、対象者以外はみな篤志家ってわけじゃないんだ。助ける側まで“施し”が当たり前だって態度になって、どうする? 傲慢以外の何者でもないよ。組織全体に対して言っているのではない。その組織を統べる人に対して感じていることだ。プライベートなことで人を待たせてもまともな謝罪も出来ないのは、よくないよ。功績は認めている。ただ、“偉く”なりすぎないで欲しいだけだ。7月のシンポには同じ業界の育休取得者が登壇してくださる。育休取得者、いるのかな? ふと、気になった。誰が板挟みになって困っているかは承知している。そこはサポートしたい。でも、今日、メールの文面があまりにお粗末だった。だから情感たっぷりのメールを返した。素っ気ないメールだからこそ、言葉には通常の何倍も配慮する。ありがとうございます、お疲れさま、よろしくお願い申し上げます……。最大級の敬語を駆使するのも、それなりの理由があるのだ。まったく別の人が送ってきたメールには、疲労困憊しているのかな?と心配になるくらい、丁寧な言葉が使われていて、逆にとても気がかりだった。トップ級の会議の席上での物言いそもままだったからね。そして、このところずっと心が折れる状況に立たされている友人は、泣き顔で、それでもなんとか気取られまいと振る舞ってた。某社が暴慢な物言いをしていたことを思い出し、「あんたなんか仲間に入れてやんないよ、あっかんべーだ。 って言ってやればいいんだ」って言ってた。自分を窮地に立たせた誰かに対しての思いを、「あっかんべー」という言葉に託してた。大好きな裁縫で気晴らししながら、ぎりぎりのところで踏ん張ってる。そんな彼女も組織のトップ。君臨している誰かより、ずっとずっと若い人たちが、心が折れそうになりながらも踏ん張ってることに、どうしても違和感を感じずにはいられないのだ。今の日本の状況そのものでしょ?昭和の妖怪と言われた人が、彼の米寿を祝う会で「これからは若い者の邪魔にならない用に」と挨拶したときに、「おいおい」って思った。20世紀の話だけれど、全然変わってないし、もっとひどくなってるじゃん。老害ですよ、まさに。もっと若い世代を大事にしないと、ほんとうにこの国は滅びるぞ。そんな話を夕方永田町のとあるところでしていた。すでに、そういう時代に突入しているってことを、国のトップにいる人々が痛感していないんだよね。ま、そんな感じの、久々の深夜の連続ツイートでした。気づいてくださった方、先にお礼を申し上げておきます。つぶやいているうちに、だんだん切なくなってきちゃったよ。