正義って押し付けがましい?
先日のワールドカフェで、おやっ?と思ったことを書いてみようか。缶詰作業一日目の今日、お昼過ぎに夫が帰宅したのと入れ替わりに、お昼ご飯の買い出しに出かけたときのこと、「世界の平和を守る鬼」と書き添えられた娘の幼稚園時代の友人の絵を思い出しながら歩いていた。この「世界の平和を守る鬼」って鬼なのに「正義の味方」なんだよね。子ども時代のヒーローはいつだって「正義の味方」だ。で、ワールドカフェ。私を持続可能にするために必要なことは何かという問が出されたターン。居合わせたメンバーのうち、北欧生活が長かった方がトップを切ってコメント。自由、喜び、好奇心、(他人の)笑顔。おおお、こりゃあ、精神的な面からのアプローチですね。先ほどまでは、非常に現実的かつ物質面からの話だったのでなんだか新鮮だわ。で、それに付け加えてみたのが、(私なりの)正義感。「正義」という言葉に若干の違和感を感じつつ。すると、このような感想がもたらされる。「どうも正義って言葉には、 押しつけがまさを感じるのよ」そうか、先ほどの違和感も、そこにあったかも。人に押し付けるるつもりはもとよりないのだけれど、誤解されたくないので「使命感」と言い換えてみる。どうもね、「正義」って言葉が嫌われているみたいだ。と改めて思ってみると、なんとも不思議な気持ちにとらわれる。冒頭の話じゃないけど、子どもの頃は、むしろ好感を持たれていたように思うのだ。おとなになるにつれて、押し付けがましさを感じるようになる?それとも、今の世の中全般が、「正義」って言葉にうさん臭さを感じるようになってる?単純に善と悪が決めつけられないってことはもう随分前から、子どもの世界でも了解済みのような気がする。いや、それどころか、誰かから正義の名を借りた理不尽さに翻弄されているのが子ども時代。子ども自身がそれに気がついていると確認されているのが今の時代と言えるかも。これだけで十分に複雑化しているなあ。そんなこと思うのあんただけだよ、って言われちゃうかしら?一応好感持って受け止められていたはずの言葉がそれを発しようとする本人にさえ、一瞬の躊躇を感じさせるなんて内心かなりの驚きだったんだけどなあ。とまあ、いろいろなことを考えさせてくれたんだけれど、そのターンでのまとめは、こんな感じ。「これからは共感力が未来への希望を育む」思わず反応してしまう。「ここでも共感力、つまり力なんだね?」正義も押し付けがましいけど、○○力も同じ匂いがする。いちいちきりがない感じだけれど(苦笑)、私自身が年を取ったのか、それとも時代の流れがそんな風潮を醸し出しているのか、そこのところはよく分からないけど、言語感覚ってやつは、なかなか侮れないことを改めて痛感したのだった。