聖書(バイブル)の伝えたいこと
1000年以上も前の、聖書研究の学者だが、「バイブル(聖書)の伝えたいことは、ひとつだけだ。それは、自分のして欲しくないことを、他人にするな、ということだ。」と、紹介した研究書がある。いわく、他のもろもろの言葉、説明、伝記などは、上記の事柄を、説明、立証するためだけに、縷々書かれているのだと、言う。何にでも、原則、基本というものがある。その原則や、基本から離れた枝葉の部分が肥大して、間違いを起こしていく。自己保存か何かの理由で、他の人たちを圧迫すること、圧迫しようとするタイミングがある。集団ができたとき、こうなると怖い。だから、指導者が原則、基本に立ち返らせることが大事になる。また、個人、個人においても、原則を理解し、基本を守る姿勢が大事なのだ。そもそも、キリスト教も、ユダヤ教も、イスラム教も、兄弟的宗教であって、聖書の大元は同じはず。戦争しろとか、人を殺せとは、書いていないはずだ。自分たちを守るためなら、許すとバイブルのいったいどこに書いてあるのか。仏教や、儒教、道教、神道、その他の宗教も、似て非なるものではなく、原則、基本というものは、相手が生身の人間である以上、同じことを説いている。そりゃそうだ。そうでなくてはならない。儒教の論語にしても、始祖の孔子に曰く、最も大事なものは「仁」だという。「仁」とは、大昔の殷、周からの文字だそうで、その意味は字義のとおり、「ひとが二人であったときに、人と人として守らなくてはならないこと。」これを仁という。であれば、バイブルと同じではないか。広い広い、誰もいない原野で、人と人が会ったときに、人同士であればこそ、殺してはいけないし、盗んでもいけない、姦淫してもいけない、・・・。尊厳ある人であればこそ、ダメなものはダメなのだ。そして、それをするのもひとであるから、ひとという動物こそ、恐ろしい。恐ろしい動物であるから、宗教があり、やっと、「人」になった。********************************************************************たとえば、医者は患者の病気を治すのが仕事だが、そのために、検査や、投薬、もろもろのことを行なっているのだと思う。1番大事なことは、何だろう。「大丈夫だよ」と目を見て言ってあげることではないのか。安心感を与えることではないのか。検査も、治療も、手術も、投薬も、その後のことではないのだだろうか。医者を例にとってみたが、会社の仕事も、家庭の役割りも、つまるところは、同じことではないか。だから、目をみて、笑って、握手して、ハグして、ボクがいるから、大丈夫だよと、みんなに言ってあげたいものだと思う。******************************************************************そうするために、ひとりひとりに必要な資質がある。それは、想像力。こうすれば、相手はどうなるんだろう。こうすれば、相手はどう感じるだろう。痛いか、悲しむか、喜ぶのか。それがわかってこそ、すべきことがわかる。経験というものが、大切な所以(ゆえん)だ。だから、こどもはたくさん本を読むのが良い。疑似体験をいっぱいして、本のなかで、感動したり、泣いたり、笑って欲しい。もちろん、家族の中で、友だちの中でも、ホントの人間と一緒に、感動したり、泣いたり、笑って欲しい。いっぱい経験して欲しいと思う。記:とらのこどもPS というわけで、今日の禅問答。いかがでしょうか。休日再掲です。