今なお悪評の高い両班制度ですが。。。
その両班制度の創設は、高麗時代です。日本は平和な島国で、遣唐使も止め、遣新羅使も止めた平安時代。大陸では、北方民族が南進、西進。(注釈1)中国でも宋の王族、貴族たち数千人が連れ去られ、南へ遷都します。その後、元寇へと続く長い長い戦乱になっていくんですが、それに国を挙げて対応するため、地方の領主による封建制をつぶし、軍隊も国軍に再編成します。(注釈2)そして国家に人材を集めるために、科挙制度が創設されます。(注釈3)高麗と元との抗争は、約30年間ですが、10世紀初め唐が亡んで元のフビライが死ぬまでの300年間は、北方民族vsそれ以外の民族との世界大戦争時代です。東西の辺境だけが、その影響が軽微だったのが史実だと思います。ですから、当時の両班制度は、明治維新並みの世界への対応を朝鮮民族がやっていた証(あかし)だったと思います。新しい時代には、新しい取組みが必要なのですから、時代を経て腐っていくのは仕方ない。。。それはいずこも同じことでしょう。記:とらのこども(注釈1) 907:唐滅亡、918:高麗興る、926:契丹が渤海を滅ぼす960:宋興る、1115:金興る、1192:鎌倉幕府始まる1196:崔氏武人政権成立(~1258)、1206:ジンギスカン即位1231、1232:第一次・第二次高麗への蒙古侵入1234:蒙古が金を滅ぼす、1236-1239:高麗へ第三次の蒙古侵入1247-1258:高麗へ第四次、第五次、第六時の蒙古侵入1258:崔氏武人政権が亡ぶ、朝鮮に蒙古の総督府が置かれる1270-1273 高麗で三別抄の反乱、蒙古・高麗と闘う1274,1281:日本への元寇、1279:宋が亡ぶ、1294:フビライ死す(大遠征を繰り返し指揮した、フビライの死去とともに遠征終結)(注釈2) 948年 高麗が地方豪族の私兵を「光軍」という国軍に改変する。地方豪族の武力を、契丹(キタイ)の侵略へ対応するため統制した。各豪族を地方部隊の指揮者に命じ、全体を中央政府で統制する。やがてそれは、高麗の州県軍という地方軍として成立します。当時の両班制度は、武班から始まったのです。(注釈3)958年 朝鮮の歴史上、初めて科挙制度を創設します。この狙いは、地方の優秀な人材を中央の官僚に吸収する、これが最大の狙いだったと思われます。中央官僚の整備と、地方郡県制の整備です。(感想)南蛮人がアジアへやってきた16世紀と同じように、ロシアや米国がアジアにやってきた19世紀と同じように、北方騎馬民族が世界へ怒涛のようにやってきます。否、もっともっと凄まじい殺戮こそモンゴルの真骨頂ですから、全ての村落、人民は焼かれたはずです。大急ぎで、世界侵略に対応する国の大枠を、両班制度が支えました。特に崔氏高麗武人政権は、元の度重なる侵入を耐えて戦い抜きます。昔の朝鮮人は、本当に素晴らしい。立派な歴史を持っています。もし高麗が国を挙げて、契丹、金、そして蒙古と闘い続けなければ、日本への蒙古の侵入、支配はあり得た話しです。第二次の元寇では鋤鍬などの農具をいっぱい船に乗せてきています。軍隊14万人、船の数が四千四百艘。途方も無い大軍でした。なのに、高麗最後の李将軍は、高麗という国と人民を、中国に売り渡します。魂を悪魔に売ったんだと思います。朝鮮民族の最大仇敵が朝鮮民族の指導者から出る。それが朝鮮最大最悪の不幸です。日本にも同じような雰囲気がプンプン。それこそが恐ろしい。