ギャルリー・ヴィヴィエンヌで出会ったマン・レイ&ジャン・コクトー
ギャルリー・ヴィヴィエンヌを歩いていたら、いかにも老舗の古本屋があった。店先では古い絵葉書を売っている。その中に30代半ばぐらいのジャン・コクトーのポートレートが。知的で繊細でお洒落で、そしてやや病弱で孤独そうなコクトーの雰囲気がよく出ている。構図も背景の「小道具」もバッチリだ。いい写真だと思って裏を見たら、写真家はマン・レイだった。なるほど。コクトーのそばに、またもオスカー・ワイルドが。そういえば、ワイルドの墓って、パリにあるのだっけ。ファンも多いだろうから写真も売れるのかもしれない。が、ワイルド氏のポートレートはコクトーの若いころほど視覚的な魅力がないので(婉曲表現? 直接表現?)、買うのは見送る。追記:ワイルドの墓の写真は、実際に行かれたというこちらのブログをどうぞ。こちらはもう少し年を取ったジャン・コクトー(左)。右にはコクトーの永遠のミューズ、ジャン・マレー。ダンディな2人の男性にはさまれたワンちゃんは、マレーの愛犬ムールーク。映画『悲恋』にも出ている。この写真のそばに、なぜかダライ・ラマの絵葉書もあった。シュールな並びだ・・・そして、もう1つマン・レイの作品。Nusch et Sonia Mosse' 1936とあったのだが・・・どなたで?誰だか知らないが、絵的に大変気に入ったのでお買い上げ。老舗古本屋のご主人は、20セントのお釣りも、「結構ですよ」と言ったMizumizuに、「ノン、ノン」と言いながら、ちゃんと返してよこした。南仏の雲助とはえらい違いだ。で、こちらの写真・・・ カクンと首を折った上の女性のポーズは、自然なようでいて、実はかなり計算されている。すぐに思い出したのは、北斎のこの美人画。この首の折り方は、現実には不可能なくらい無理がある。だが一見すると自然に見える。この北斎のたおやかで妖艶な女性美に対する感覚・手法と似たものを、Mizumizuはマン・レイの写真に感じた。甘えるように見上げている下の女性の表情もいい。姉妹のようでもありながら、微妙に恋人のニュアンスもある。信頼とやすらぎに満ちた空間。顔の表情から推察される性格はかなり違う印象だが、髪の毛の色や質感はそっくりで、ほとんど溶け合っている。こうした極めて近似した肉体に異なる精神性が宿っている図に、Mizumizuはエロスを感じる。これがダンスなら、なおいい。こうした雰囲気を男女のカップルで出すのは難しいから、Mizumizuがエロスを感じるのは、男性+男性、もしくは女性+女性の組み合わせに限られてくる。こうした組み合わせに、こうした感覚をもつ人も、ときどき世の中にはいるらしい。上のマン・レイ写真から漂ってくるそこはかとないレズレズしい空気もそうだが、たとえば、ベルトルッチの映画『暗殺の森』では、こんな女性同士のダンスシーンがある。ブロンドのフランス人妻と黒髪のイタリア人妻がそれぞれの夫の前で踊る。誘いかけるのはブロンド妻のほうで、演じるドミニク・サンダのクールな美貌は、整いすぎてどこか男性的ですらある。彼女はきわめてフランス女性らしい奔放かつ退廃的な性格。ここでは妻のほうと踊り、別の場面では彼女の脚を愛撫するなど、レズレズしいムードを醸し出すのだが、彼女の知らないところでは、夫のほうにも誘いをかけている。一方のステファニア・サンドレッリ演じる黒髪妻は、これまた典型的なイタリア女性。夫のダークな面にはあえて触れず、かわいい妻としてそばに寄り添い続ける。夫以外の人間にコナかけたりもしない。平凡な性格だが、平凡さゆえの強さもある。男性同士のダンスといえば、テクニック的に望みうる最高のものを見せてくれるのが、映画『ヴァレンチノ』のこちらのシーン。これはヤバイくらいうまい。見入ってしまうなあ・・・それもそのはず、踊っているのはルドルフ・ヌレエフ(ルドルフ・ヴァレンチノ役)とアンソニー・ダウエル(ニジンスキー役)。最後に1人で踊るのがダウエル。2人とも素晴らしいタンゴを披露しているが、よくよく見るとヌレエフのほうが先生っぽい(つまり、テクニックが確かで、この2人のタンゴダンスをリードしているということ)。同じモーションも多いが、ヌレエフのほうがピシッとポーズが決まり、脚の動きも大きく、速いので、よりたくましく男性的。ダウエルのほうがやや動作中に身体の軸が不安的になるように見え、それが繊細な印象になっている。言っておくが、あくまでヌレエフと一緒に踊った場合にそう見えるという話であって、アンソニー・ダウエルだってイギリス舞踏史に残るバレエダンサーだ。サーの称号ももっている。そもそもヴァレンチノがニジンスキーとタンゴを踊るなんて、ありえない話だし、ヴァレンチノがこんなにバレエの基礎を叩き込んだダンサーだったなんて話もない。ニジンスキーよりヴァレンチノのほうが踊りがうまいという時点で、すでに「どうなってんだ」のファンタジーになっているが、とにかくこのダンスシーンは傑作。2人の体格に差がないのが、またいい。ヌレエフとコクトーつながりで思い出したが、ローラン・プティの創作ダンス『モレルとサン・ルーあるいは天使たちの闘い』(動画はこちら)は、まさしく、惹かれあう極めて近似した肉体に、対照的な精神が宿ったときに起こる衝突と軋轢をエロティックに表現したものだ。詳しい解釈はサン・ルーを演じたマチュー・ガニオのインタビュー(こちら)にあるが、かいつまんで説明すると、舞台の右側から出てくるのがモレル。いったん近づいたあと後ずさるのがサン・ルー。ダンサー2人に体格差はほとんどないが、情緒的でしなやかな動きをするサン・ルーに対して、クールできっぱりとした動きをするモレル。精神性が対照的だということはすぐわかる。モレルは逃げようとするサン・ルーの肩に手をかけて誘いかけるのだが、そのあとは股に足をつっこんだり、倒さんばかりに胸に手を押し当てたり、非常に残酷だ。セックスそのものを連想させるポーズもある。ガニオによれば、苦悩の表情をさかんに浮かべるサン・ルーがモレルに対して抱いている感情はLove(愛)。残酷で即物的な振る舞いをするモレルがサン・ルーに対して抱いている感情はLust(欲望)。愛と欲望が鏡合わせであるように、モレルとサン・ルーも鏡像のような動きをする。だが、相手に求めているものはまったく違う。そのすれ違いに、モレルは苛立ち、サン・ルーは打ちひしがれている。モレルの残酷さはコクトーの不実な天使、「君なんて死んでも平気。僕は自分が生きたいよ」と言いながら、決して詩人を自由にしてくれない天使のイメージと通じるものがある。若いころのプティはコクトーの大ファンだったし、こうしたたくましい肉体をもった天使のイメージにコクトーの影響を見るのもあながち間違いではないかもしれない。また、プティにも離れがたい残酷な天使がいた。それこそがヌレエフ。こちらのエントリーでも紹介したが、最初にプティに近づいてきたのはヌレエフのほうだった。しばらく後に再会すると、2人はすぐに離れがたくなり、ほとんど寝食をともにするようになる。だが、ヌレエフは私生活の乱れっぷりでプティを呆れさせ、仕事を次々入れてプティとの仕事の時間をないがしろにし、ヌレエフにとって一番の振付師でありたいと密かに願っているプティの前で、別の振付師をベタ褒めしてプティをウンザリさせる。「別のダンサーに躍らせろよ。僕なら1週間もあればできるけどね」(←プティとの創作バレエをキャンセルするときのヌレエフの捨て台詞)「言っておくけど、僕は君の『フランス的』バレエになんか、興味はないからね。僕はクラシックバレエのダンサーなんだ」(←やっと発表にこぎつけた創作バレエの公演が終わったあと、ヌレエフの踊りをプティが気に入っていないと人づてに聞いて、プティの気持ちを誤解したヌレエフがヘソを曲げて叩いた憎まれ口。このあとさらに汚い言葉を公衆の面前で吐いて、2人は絶交状態に)。プティによれば、ヌレエフは天性の誘惑者で、「僕のこと好きになってくれる?」と相手の瞳を覗き込み、微笑みかけ、首尾よく相手がその気になったときには、もう彼の関心は次の獲物に移っていたという。ヌレエフは死んだあとでさえ、プティを完全に解放してはくれなかった。ヌレエフの死後何年もたってプティが見た夢は、振付師とバレエダンサーとしての2人ではない。ヌレエフに誘われて踊り出し、人々に囲まれながら、いつまでも踊っている2人の夢だ。コクトーの提示した青年の肉体をもった天使、誘惑者ヌレエフに対して抱いた愛と痛みの感覚・・・そうした体験が、プティの『モレルとサン・ルーあるいは天使たちの闘い』に移植されているようにも思う。