『熊座の淡き星影』の音楽
映画音楽というのは、その作品のためにオリジナルで作ることもあるが、既存の名曲を当てはめて使うことも多々ある。後者の場合は、どの曲を選ぶかが制作者のセンスの見せ所だ。既存曲のどの部分をどの場面に使うかによっても、映像が生きたり、逆に感動がそがれたりする。音楽が映像の視覚的効果を高めているか、殺しているか――判断は、たぶんに観る者の主観にもよるとはいえ、映画を評価するかしないかの、重要な分岐点になるということは間違いない。『熊座の淡き星影』に使われた音楽は、19世紀後半にセザール・フランクが作曲した「プレリュード、コラールとフーガ」だ。単一曲を作品の全編にわたって流すという手法も、実はコクトー原作、メルヴィル監督の映画『恐るべき子供たち』を踏襲したもの。『恐るべき子供たち』で使われたのは、J.S.バッハの「4台のピアノ(もともとはチェンバロ)のための協奏曲 イ短調 BWV1065」だったが、この曲もメルヴィルの詩的かつ絵画的な映像とピタリと合い、映画を観た人がバッハの曲と知らずに、「あの映画音楽が欲しい」とレコード店を訪れたという逸話も残っている。こちらに『恐るべき子供たち』の冒頭の雪合戦のシーンがある。ジャン・コクトーの金属的な声音のナレーションにかぶって、バッハの整った旋律が流れる。まるで、この映像のために作られた曲のようにハマっている。全曲はこちらにいい動画がある。なんと指揮者のレヴァインがピアノを弾いている! ということは、これはヴェルビエ音楽祭ガラからのものだと思う。他にもアルゲリッチ、キーシン、プレトニョフと、いやいや、凄い面子が揃っている。しかし、改めて見ると『恐るべき子供たち』は、ポール(雪球を受けて倒れる)、ダルジュロス(街灯につかまりながら、雪球を投げる)、ジェラール(ポールに付きそう)の3人の少年役の役者のケミストリー(複数の役者が競演することで生まれる化学反応的な相乗効果)が、あまりに悪い(涙)。1:02あたりに登場するジェラールが一番少年らしい透明感を出していると思うが、ポールはごつい青年だし、ダルジュロスは明らかに女の子。しかも、この男の子のような髪型でアップになると、年以上に老けて見える。ポール役はのちにコクトーの養子となるエドゥアール・デルミットだが、彼をキャスティングすることが映画化の条件だと言ってコクトーが譲らなかったために、監督のメルヴィルが妥協したのだ。のちにメルヴィルは「ポール役はミスキャスト」と悔いている。ただ、キャストはともあれ、フランソワ・トリュフォーをして、「繰り返し繰り返し、100回は観た」と言わしめた映像美は素晴らしい。メルヴィルが『恐るべき子供たち』を撮ったからこそ、トリュフォーの『大人は判ってくれない』が生まれた。そうそう、甘草も出てくる。3:15あたりでダルジュロスがつまんで口に入れている、ゴムみたいなお菓子。あれが甘草。こちらが、『熊座の淡き星影』の重要なシーン。ジャンニが暖炉で自作の小説を焼き捨てる。ここに音楽がかぶさり、いったん中断する。続いて、ジャンニがサンドラを激しく責めつつ、肉体的に求めるシーンで再びピアノの旋律が聞こえてくる。こちらも、オーダーメイドの音楽のように映像と一体化している。「僕への愛を犠牲という仮面で隠した」「そうして得た倫理をたてに哀れな母と義父を責め立てているんだ」サンドラの「きわめて女性らしい偽善」をあばくジャンニの告発が、生々しくも痛い。途中で暗闇でビリッと服が破れる音が入り、てっきりサンドラの肉体が露わになるのかと思いきや、「セクシーに」シャツがはだけてるのはジャンニのほうだった… という微妙なハズシが、実にヴィスコンティらしい。ジャンニって、どこまで弱いねん?最後のほうで、「オ・プレパラート・トゥット(用意してあるんだ、全部)」と言いながら、振り子時計――エロスとプシュケーの彫刻付き――を置いた棚の引き出しから、死ぬための薬の入った瓶を出すジャンニは、『恐るべき子供たち』のポールそのまま。このフランク作曲「プレリュード、コラールとフーガ」については、こちらに詳しい説明があるが、サン=サーンスの次の言葉が示唆に富んでいる。「不体裁で弾きにくい曲だ。この曲では、コラールはコラールではなく、フーガはフーガではない。なぜなら、フーガはその提示が終わるや否や元気を喪い、際限のない脱線によって継続されるのだから」コラールとはもともとは、「合唱」――単旋律を声を合わせて歌うこと――を指す。フーガとは遁走曲とも訳されるが、元来、イタリア語で「逃げること」を意味する。サン=サーンスはこの曲をけなしているのだが、「コラールではないコラール。フーガではないフーガ」と言葉を、コラールになりきれないコラール、フーガになりきれないフーガと読み替えると、サンドラとジャンニの関係をあまりに的確に言い当てているのだ。個人的にはこの曲は名曲だと思うし、バッハの影響も大いにあるが、バッハにはない「不調和」な部分、なにかしら「心地よくない展開」が確かにあり、だからこそ、その中にときどき出現する流麗なメロディが際立って美しく聴こえるように思う。そして、サンドラとジャンニという、1つになることもできず、逃げ出すこともできない悲劇的な姉弟の物語にこの曲がピタリとはまったのは、「提示が終わるや否や元気を失う」フーガが絶えず「脱線していく」、この曲の欠点ともいえる特性があったればこそだったのではないかと、そんな気がしている。