今は、それほど気持ち悪く思わなくなったのは母と兄が〇〇〇から? 1
今は、以前ほど、無茶苦茶、気分が悪くなる。。。という事はなくなった、、、なんで❓ と考えていた。10年前は『私を海外に売り飛ばして小遣いにしたろ。』と企んでいたボケナスの兄貴が、何で、のんきっきー。と悠々自適に暮らしてるねん。超ムカつくー!!と思っていたのですけど。10年前の10月の下旬に、縁切り状の代わりに、いきなり旦那の父の《喪中はがき》を送りました。旦那の父が他界したことは伏せてありました。家の旦那にも『絶対に言うな!言うたら最後、ボケナスの兄貴と出来損ないの母が、養ってもらおうと家に転がり込んで来るで!』と言ってありましたし。そしたら、、、、旦那の父の喪中のハガキが母の家に届いた当日の昼下がりに、、、、呆けナスの兄貴から電話がかかってきました。母の家に届いた旦那の父の《喪中はがき》を、、、母は、ジ・・・・・っと、見た後、、、ヤケ酒を飲んで風呂に入って、そのまま風呂場で、、、チ―――ン した。というような話を呆けナスの兄貴は電話で言っていた。で、、、、私は『悪いけど、葬式には行かへんで。遠いからしんどいし。ごめんな。ほなさいなら。』と言って電話を切りました。その時の私の気持ちは、『やっとこさ解放された! 出来損ないの母から。長かったなぁ。今日は、もう無理やから、明日、赤飯炊いたろか。』と思いました。ただそれだけです。その後、家の旦那が『オフクロにも言うといた方がええけん、すぐに電話をしときんさいや。』と言ったので旦那の母にも報告しました。私が母の葬式には行かない事を伝えたら、旦那の母は『なんでね❓ 行きんさいや。お母さんじゃに。今日は、もう遅いけん、明日の朝、早う出たら間に合うじゃろう❓ 明日、早うに、家へ寄ってから行きんさい。』と言った。で、、、、朝早くに旦那の母の家へ行ったら、、、旦那の母は起きて用意をしていました。母の香典を。その後、言われた。旦那の母に、、、、『喧嘩しんさんな!』って。その時くれました。旦那の父がキーホルダーとして使っていた《トカゲ革の靴ベラ》を。旦那の母の家を出るときに、、、、『何か有ったらすぐに私に電話をしんさいよ。私も、今日は、一日、家に居るけん。』と旦那の母が言いました。私は、『一昨日の晩の夢に出てきた旦那の父と同じ事を言うたー!』と思ったのですけれど・・・・・旦那の父と旦那の母は夫婦ですからね。同じ事を言っても不思議はないわけで。。。。昼前に母の家に到着すると、、、、呆けナスの兄貴が日蓮正宗のお経とは違う奇妙なお経を唱えていました。《毎度、気色悪い奴や》と思いました。暫くすると、、、、兄は台所へ行き、一人で誰もいない空間に向けて、そこに誰かが居るかのように、大きな声で怒り始めた。私は、気色悪い! 早く家に帰りたい!と思いました。直ぐに母と兄が暮らしていた公社住宅の住人の世話役をしてくれていた人たちが様子を見に来てくれました。私は思いました。『公社住宅に住んでいる人たちはボケナスの兄貴の異常っぷりを知っているのや。』って。その現実を受け入れようとしなかったのは、私を徹底的に痛めつけて、私に、ぶら下がることでしか生きて行けない出来損ないの母だけでした。葬式の後、焼き場で母を焼いている間、飯抜きでした。理由:呆けナスの兄貴が『俺は飯を食いたくないから、自分で勝手に飯を食うてくれ。』と言ったから。焼き場に自販機は有っても、レストランなんかないですよね❓やっぱり最悪な葬式でした。創価学会のオッサンには犯罪に加担することを勧められるし。でもね。帰りの新幹線の中で母の思い出が全――――部、消えてたのその時は全く思い出せませんでした。今でも記憶を辿って行かないと思い出すことが出来ません。身内が亡くなると良い思い出しか残らないって本当ですね。だから母の思い出は「0」です。