”生きる”ということ
先日から感動し続けている平成のブラックジャック、平岩正樹さんの本。ある夏の暑い日、一人の男性が亡くなった。その人の名は、佐藤均さん。平岩医師は言う。佐藤さんの”生きる”は実に見事だった。主治医として、最後の日々を共に過ごした私の目には、彼の生き方は、まぶしいほどに輝いて見えた。佐藤さんは島根県のテレビ局でカメラマンとして働いていた。しかし、大腸がんになり、いったんはよくなるも、再発する。地元で治療を受けていたが、その治療はとても満足のいくものではなかった。抗がん剤治療の専門医はいないし、使える抗がん剤があっても承認されていないために、薬代は極めて高い。”治療法はもうない”そう告げられて、佐藤さんは”がん難民”となった。それで、東京にいる私(平岩医師)のもとを訪れた。佐藤さんの生き方に共感した平岩医師は、佐藤さんを担当をすることにいささかの迷いもなかったという。がん医療には様々な問題がある。たとえば”地域格差”や”未承認抗がん剤”の問題。これらの問題に苦しめられてきた佐藤さんは、自らこうした問題を解決すべく立ち上がる。”島根県には、抗がん剤を使いこなせる専門医は一人もいません””海外では標準的に使われている抗がん剤が日本では承認されていません。その為、 患者は、世界標準の抗がん剤治療を受けられずにいます。””全国の多くの医療施設で、がんの患者が見捨てられています。”佐藤さんは、自身が、がん再発という非常に難しい状態になりながら、命がけで活動をし、厚生労働大臣に提出したり、島根大学医学部付属病院の院長と対談し、島根県のがん医療の実情を訴えたりと、実に精力的に活動した。そしてさらには、”がん患者大集会”という、がんの患者とその家族の集会を大阪で開催するまでになった。この大集会には、厚生労働大臣をはじめとした国会議員や官僚も参加した。佐藤さんが引きずり出したと言ってもいい。じつは、この大集会のひと月ほど前、佐藤さんはある一つの治療がうまくいかずに、治療のための時間を必要としていた。私(平岩医師)は佐藤さんに言った。”今回の大集会への参加はあきらめて、調整期間として費やすべきだ”と。これは主治医として当然の意見である。だが、佐藤さんは言う。”先生、私の答えはわかっているのでしょう”佐藤さんの言う通りだった。私は彼の答えを半ばわかっていた。がん治療をよくするために、命がけで戦っているのだ。命がけとは”命に替えてでも”と言い換えることもできる。命に替えてでも、”がん患者大集会”を成功させたい。命を削ってでも、”がん患者大集会”に参加して、自分の意見を訴えたい。それが佐藤さんの思いだった。平岩医師は言う。”主治医であるなら、ドクターストップをかけてでも参加するのを止めるべきだという 意見もあるかもしれない。だが、私はそうはしなかった。 その人の人生を生きているのは、あくまでその人である。医師としての意見は言っても 患者の考えを変えたり、生き方を変えたりすることはできないし、 すべきでもないだろう。”佐藤さんの決意をあらためて聞き、その思いを感じ取った平岩医師は、大集会に参加できるコンディションを整えることに精力を傾けた。それが、主治医として私に出来ることであり、すべきことでもある。そして、迎えた当日。そこには誇らしく、晴れやかな姿の佐藤さんがいた。”がん難民をこれ以上、生み出してはいけない”。壇上で佐藤さんは涙ながらに、 しかし力強く訴えた。それからおよそひと月後、佐藤さんは息を引き取った。佐藤さんの”死”は、否 ”生”は見事に結実する。それから1年後、”がん対策基本法”が国会で全会一致で可決したのである。がん対策基本法には、がん医療による恩恵や利益がすべての人に等しく行き渡ることを促進し、専門的な知識や技能を持つ医師や医療従事者を育成することなどが盛り込まれている。この法律が成立した背景には、佐藤さんや多くの人たちの命がけの尽力があったのである。佐藤さんの”生”は、あまりにも見事で、この上ないほどに格好よかった。とりわけ、その当時、心身ともに疲労していた私(平岩医師)の目には、まばゆいほどに輝いて見えた。日本のがん医療をよくするため、佐藤さんとともに闘ってきた私は、ここで彼と一緒に人生を終えれば、自分の人生もそれなりに完結すると思ったほどである。