三菱自動車工業代表取締役社長 最終回
三菱自動車工業 代表取締役社長益子修いち早く、トヨタやホンダに先駆けて、電気自動車を市場に投入することのできた三菱自動車。社長の益子が、電気自動車、iMiEV(アイミーブ)を他社に先駆けて、三菱から発売できたのはなぜか? ”これからは環境を無視した自動車は売れなくなる。”と、他社よりも、早く気づくことが出来たからか?じつは、そんなカッコいい理由ではなかった。益子が社長に就任した当時の三菱自動車は。。。リコール隠しの発覚、欠陥車による事故などで、日本中から総スカン状態だった。だれもが三菱は、もう終わった。と感じていた。大規模なリストラを行わなくても、会社に絶望した社員が次々と辞めていった。辞める社員を引き留めると。。。社員は、”このまま会社(三菱自動車)に残ると。。。 子供が。。。イジメの対象になる。”といった。”こどもは、周囲から、人殺し会社とはやし立てられている。”と言われた。三菱商事から経営立て直しのために送り込まれた益子は、バラバラになっていく会社の中で、社内をひとつにするキッカケを探していた。そして、そのきっかけが、電気自動車iMiEV(アイミーブ)の開発だったんです。益子修は、言う。。。”まさか、電気自動車の開発中は、 こんなに反響を呼ぶなんて想像していなかったです。 それが、ここ1~2年で世界中の人々の車に対する考え方がガラッと変わり、 強力な追い風となりました。 わたしの実績というよりは、運が良かったんですよ。”どこまでも、謙虚な益子だった。三菱自動車の取引先の社長さんのひとりは益子のことを、”益子さんに いやな印象を持つ人はいないと思いますよ。 有能で、情に厚く、気配りの出来る人です。 ”益子さんの為ならば”と思ってしまう人なんですよ(笑)”益子修は、大学時代あまり目立つ存在ではなかった。当時盛んだった学生運動にも無頓着だった。就職も、”東京勤務が多い”という、つまらない理由で三菱商事を選んだ。益子自身、”ふつうの学生でしたよ。”と語っている。高校時代の同級生たちに印象を訪ねても、”おぼえていないなぁ”という答えが返ってくるような存在だった。ところが、三菱商事に入社し、益子修は、ガラッと変わる。三菱商事1年目、入社間もないころ、沖縄国際海洋博覧会の交通システムの入札があった。三菱商事は、アメリカ系企業と共同で入札に参加した。益子は、それまで。。。アメリカ人は、あまり仕事をしない。という印象を持っていた。しかし、半年仕事をしてみると、益子のイメージは吹き飛ばされた。一緒に仕事をしていたアメリカ人は、日本人たちが集まって昼食をとっている最中も、サンドイッチ片手に、仕事をやめなかった。ものすごい仕事の進め方だった。また、あるプロジェクトでは、相見積りで負けてしまい、上司から、人格を否定されるほど罵倒された。こうやって、三菱商事の苛烈な職場環境のなかで、益子修はメキメキと力をつけていった。益子修を知る部下の話によると。。。”益子さんは、会議の場でも、食事の場でも、 二つ以上の仕事を同時にしていた。 普通の人が3時間かかってやる仕事を、 益子さんは1時間で正確にこなしていましたよ。”益子修が、三菱商事、韓国駐在員時代の話益子のもとに、東京本社から連絡が入る。”韓国の現代グループ子会社が中東で大きなプロジェクトに着手する。 おそらく関係の深い日野自動車からトラックを購入するつもりだ。 その商談を、自工(三菱自動車工業)へ誘導しろ! ”ほとんど決まりかけた取り引きに首を突っ込み、横取りしろ!という命令だった。だれもが無理だと思った。。。なぜなら、韓国の現代グループと日野自動車との関係は深く、しかも現代グループの希望するトラックは、積載量60トンクラスの大型トラックだった。当時の三菱自動車には、そんな大型トラックはなかった。三菱のトラック積載量は、せいぜい30トンクラスだった。益子は、正面玄関から交渉にいっても、おそらく担当者同士の間で、ほとんど商談は成立してしまっていると考え、なんと大胆にも、現代グループ創業者のもとへ直談判に行った。そして、益子は、”三菱には60トントラックは一台もございません。 30トントラック2台でどうですか。”と、ぬけぬけと言い放った。結果、三菱商事は、現代グループから1000台以上のトラック受注に成功するのだった。こんなスーパーなビジネスマンの原点はなにか?益子修は言う。”母親かもしれない。””母は、”会社で自分が正しいと信ずることが通らないのなら、”生活のために残ることはありません。”と話しておりました。母親は、古い人だったけれど、この言葉はずっと わたしの心の支えになっております。”益子が来る前の三菱自動車の前社長、多賀谷は言う。”以前の三菱は、企画や開発が立場的にえらく、 販売は意見が言えるような雰囲気ではなかった。 しかし、いまの自工(三菱自動車)は、風通しがよく、 だれもが自由に話のできる雰囲気があり、一体感がある。 これは益子さんの業績だと思う。”まさに彼は、 ” 桃李不言下自成蹊 ”な人ですね(笑)。”桃李ものいはざれども、下おのづから蹊を成す ””桃李不言下自成蹊” の意味は、桃李というのは、”すもも”のことです。草が生い茂っているところに、すももの樹が立っているところを想像してください。すももの樹は 当たり前の話ですが、おしゃべりすることはありません。でも、スモモの樹は、やがて美しい花を咲かせます。すると、どこからともなく、人々が、美しい花を眺めようと、すももの木の下に集まってきます。そうやって、年々繰り返されるうちに、その すももの樹の下に小道ができてくるのです。つまり、仁徳のある人のところへは、自然と人があつまってくる。という意味になります。 完