【「無邪気」ほど強いものはない】
【「無邪気」ほど強いものはない】★玄侑宗久師の言葉から―◎古い時代には桃が非常に珍重されたことをお話ししましょう。 中国では昔から、三月初めの巳(み)の日に水辺で身を清めるという風習が あったそうです。 これが日本に取り入れられて、701年、文武天皇が「曲水の宴」を開きまし た。曲がりくねった水辺で宴をしたのです。 そのときに桃の花を浮かべたお酒を飲んだそうです。おしゃれだな、と思われ るかもしれませんが、そういう簡単なものではありません。 桃にはもうちょっと深い意味があるのです。 たとえば、お寺にはお札(ふだ)があります。神社にもありますね。 お寺にも神社にもあるものは、どこから来ているかというと、だいたい道教 から来ています。 お札というのはもともと道教の道具です。 お守りとかそういったものも道教が考案したものです。 もともとお札のことは「桃符」(とうふ)といいます。 なぜお札が桃符かというと、桃の木で作ったからです。 何でそれほど桃にこだわったのでしょうか。 日本の場合は、『古事記』の中に、「イザナギ」が奥さんの「イザナミ」に先立 たれた話が出てきます。黄泉(よみ)の国にいってしまった奥さんを夫が追い かけていきます。 黄泉の国とは土の中です。追いかけていくとは、つまり、腐乱した遺体を見て しまうわけです。いくら元夫でも、この顔を見られたからには帰してなるもの かと、今度は奥さんのイザナミが逃げ出した夫を追いかけます。 イザナギは逃げる。イザナミが追いかける。夫は逃げながら、途中、山ぶどう などを奥さんに投げつけるのです。投げられた山ぶどうをイザナミが食べる間 だけ時間が稼げるからです。 それでも、食べ終わったイザナミはしつこく追いかけてくるので、最後に投げ つけたのは桃三個でした。 この桃三個でイザナミはあきらめたのです。 というのは、この桃には特別な力があると思われていたからです。 その特別な力というのは何なのでしょうか。 桃というのは、一言でいえば無邪気、天真爛漫、疑いのない心を現し、その 力をもっているということです。 禅語で、「瞋拳(しんけん)も笑面を打せず」という言葉があります。 「瞋拳」とは怒りの拳です。怒りの拳も笑った顔は打てない。 これは、こっちをすっかり信じ込んでいる無邪気な人は殴れない、ということ です。怒りもしぼんでしまうわけです。 これが日常生活でできたらどんなにか素晴らしいだろうと思います。 しかし、普通は、向こうが怒ってくるとこっちも怒ってしまうので、どんどん エスカレートしまうわけです。 (参考文献:玄侑宗久著 「自燈明―お釈迦様の遺言」 知的生き方文庫)________________________________________ *玄侑師は、無邪気は無垢の心と同じことだといいます。 無垢なだけで、世の中を生き抜くことができるほど、社会はそう甘くはあり ません。 しかし、無邪気(邪気のない心)、無垢の心を失くさずに、どこかに持って おくことは大事です。 道教とは、人の道を説く教えですが、時代の流れで儒教の影響が強くなって しまいました。 道教と儒教の教えのバランスをうまくとりながら、独自の文化を築いてきた のが日本人です。 新しい年は、無邪気・無垢な自分になれる時間を一分でも多く持ちたいもの です。