【介護は善行になる】
【介護は善行になる】 あるお坊さんのお話です。 お坊さんのところに一人の奥さんが来られました。 その奥さんが嫁いだ家は農家で、ご主人の父親と母親がいたそうです。 話を聞くと、結婚して2年目に義父が脳卒中で倒れ、全身不随になりました。 それから、また2年もたたないうちに今度は、義母が同じ脳卒中になり、義父 と同じ全身不随になりました。 そして、また2年たち屋根の葺屋(ふきや)の仕事をしていたご主人が、作業 をしているとき二階の屋根から足を滑らせて転落し、半身不随になりました。 結婚して6年もたたないうちに、全身不随の義父母、半身不随の夫をかかえて 一人で田畑の仕事をしながら、懸命に三人のお世話をしてこられたのです。 お坊さんは、その奥さんの話を聞きながら胸が痛くなったそうです。 しかし、それでも何か言わなければと思い、感情を抑えながら次のように 話されたそうです。 「仏さまの教えは、義父母とご主人のお世話もしなさい、そして田畑の仕事も やりなさい、ということです。 このように言うことは、ご不満でしょう。思いやりのない無責任な言葉に 聞こえるかもしれません。しかし、この世は因果の道理で動いています。 逃げたければ、逃げることもできます。ただし、逃げても事はすみません。 逃げるということは、因果の果を果たさずに行くことですから、種は残って います。種が残っている以上、果の出てくるのは当然で、逃げ先で果を摘む だけのことです。 どの道でもあなたのお好きなように歩んでください」。 奥さんは、お坊さんの言葉をじっと聞きながら、こう言いました。 「先生、お恥ずかしいことをお聞きしました。受けてどこまでも背負って いきます」。 そして、お坊さんは慰めるような口調で語りました。 「よく言ってくださった。仏さまもどんなに喜んでくださるでしょう。 あなたの、その苦しみを代わってやれるものなら代わってやりたい。 でも、業報(ごうほう)の世界は、ひとりひとりの世界なのです。 代わってやれないから、泣かずにはおられない。 それが、仏さまの慈悲なのです」。 それから3年が過ぎたころ、その奥さんがお坊さんを訪ねてこられました。 奥さんの話は次のようなものでした。 「ある日のことでした。その日は主人はいつになく元気で『いっぺん抱き起し てくれないか』と、言いました。 そして、上体を持ち上げて柱を背にしてあげたら『お前、ちょっと前に来て くれないか』と言うのです。 妙なことを言うなと思いながら前にいくと、先生、何と主人が手を合わせて 『おれはなぁー、いっぺん座り直してお前を拝んでから死にたかった。 よく俺たちの面倒をみてくれたなぁー。ありがとう。 この恩だけは絶対に忘れんよ』 それからしばらくして主人が亡くなり、そのあとを追うように老人二人も バタバタと逝ってしまいましたが、二人とも私を拝んでくれ、とても安らか な死でした。逃げなくてよかったと、しみじみ思わせていただきました」 最近は“8050”という言葉をよく耳にします。 80歳の親を50歳の子どもが面倒をみる、という意味があるのだそうです。 このような表現には、人の気持ちの温かさをあまり感じず少し悲しい気持ち になります。しかし現実は、介護に疲れた中高年の人が親の命を奪ってしまう という悲惨な出来事も起きているようです。 介護とは、人間の尊厳性や親子の愛情、人間同士の心のつながりが深まる崇高な ものです。 介護は仕事ということではなく、善行(ぜんぎょう)であるという認識を忘れて はいけないものだと思います。 (by ハートリンクス)