■ 最近、あまり感動することがないのは・・
♪ ときじくの飽食に生き絶対の美味など知らず逃げ水を追う なかなか耳が痛いことが書いてあって、そうかもしれないなあと納得している。何に感動するかなんて事前にわかるはずもなく、感動なんて与えられるものじゃない。自分が感動したからと言って、それを押し売りしたって意味がない。 同じ舞台を見ていてこっちが涙を流して感激しているのに、一緒に見ている連れが「何で鳴いてるの!?」なんて言われて、せっかくの感動を興ざめさせられた経験がある。それは映画や小説でも、音楽にだって起こることだ。「みんな揃って感動しましょう!」なんて言う人がいたら、その人は何もわかっていない観念的な人に違いない。そんなこと言われる端からシラケてくる。「愛」だの「友情」だの安易に使われる言葉はいかにも安っぽい。「絆」だってそうだ。こころの奥深いところの、琴線に触れることがない限り、表面的な情緒の水面にぷかぷかするだけだ。 味覚なんかが一番わかりやすいかも知れない。「美味しですよ」と差し出されて食べたところで、美味しさは分かるとしても絶対に感動などしない。TVで、まずいものでも「オイシイ~!」と大袈裟に叫ぶのを見せられ興ざめの日々を過ごした後に、予期しない美味しいものを食べて、感動することはあるかもしれない。 予備知識も先入観もなくこころの底で渇望しているものが、体験に培われ経験に磨かれ本質を弁え、こころをオープンにしてこそ感動は生まれる。