☆ 知多を郷土となせる芸術家たち
♪ 天空に邪悪なるもの昇華していま痕跡の広がりゆかん 昨日は祭日・勤労感謝の日。風もなく気温も高い絶好の行楽日和。各地の景勝地や公園など人で溢れたことでしょう。陸上競技場の向こうに歴史民俗博物館を望む。 知多市歴史民俗博物館で「収蔵品展 嶋谷自然展」をやっているというので散歩がてら見に行った。 明治37(1904)年に三重県鳥羽市で生まれ、昭和22(1947)年から27(1952)年までの5年間、現在の知多市佐布里で制作活動をしていた。ただそれだけで郷土ゆかりの日本画家ということになっている。 展示数が少なく、見るべき価値のあるとは思えない絵ばかり大作が3点、額装が数点あるだけでちょっとガッカリした。市のHPもほとんど解説も目録もなく、説明するべきものが何もないという有様。≪佐布里梅林の景≫ 制作年不明 どれも制作年不明となっている。大作は写真に収める気にもならなかった。「嶋谷 自然(しまや しぜん)」 明治37(1904)年3月19日三重県志摩郡に生まれ。本名藤四郎。大正11年東京で矢沢弦月の門に入り、昭和5年第9回帝展に「網屋」で初入選。同16年、京都の西山翠嶂に師事、翠嶂が主宰する画塾青甲社同人となる。戦後は同21年の第1回日展に「冬日」を出品、以後日展を中心に制作発表を行った。同25年第6回日展に「緑影」で特選、白寿賞を受け、翌年第7回日展に無監査出品した「丘」で連続当選、朝倉賞を受賞した。同30年の第11回日展で最初の審査員をつとめ、同33年日展会員に挙げられた。同54年改組第1回日展に「湖心」を発表、文部大臣賞を受賞した。また、同45年名古屋芸術大学教授に就任、退職後同校名誉教授となった。同48年中日文化賞を受賞する。 日展参与、名古屋芸術大学名誉教授の日本画家嶋谷自然は、1993年8月13日呼吸不全のため名古屋市昭和区の聖霊病院で死去した。享年89。 30年ほど前だったか、「大澤鉦一郎」などと共に収蔵作品を公開するための美術館を作るべきだという人がいて、我々アーチスト仲間をに声を掛けていたが、時期尚早ということで没になった。時どき地元ゆかりの作家の作品展が行われてはいるものの、数も少なくいつも閑散としていて活気がない。 かつて八幡小学校で十年間、教壇に立った版画家・森岡完介さん(82)が、2023年8月25日、シルクスクリーンの作品三十九点を市に作品を寄贈している。【家森岡完介】 略歴1941年名古屋に生まれる。1964年愛知教育大学美術科卒業。1977年 第1回日本現代版画大賞展。優秀賞。1978年 第12回日本国際美術展・京都国立近代美術館賞。1983年 愛知県芸術選奨文化賞。1986年 第5回ソウル国際版画ビエンナーレ・優秀賞。1987年 第2回和歌山版画ビエンナーレ・佳作賞。1988年 第10回エンバ美術賞展・国立国際美術館賞、第12回クラコウ国際版画ビエンナーレ・国立美術館賞。1991年 個展(タイ国立美術館・バンコク)。 収蔵作家一覧 大澤鉦一郎、宮脇晴、愛美社の仲間、森岡完介、小島老鉄、冨田古観、神原鳳章斎、久野柳荘、山本梅荘一門、杉本健吉、宮脇綾子、その他知多半島へ目を移すと、多くの偉人を輩出しているのがわかる。 南知多町のものなので、全部が網羅されているわけでもない。「鈴渓塾」の面々を忘れてはいけない。 盛田命祺(めいき)と溝口幹、トヨタ中興の祖・石田退三、ソニーの創業者の一人・盛田昭夫、敷島製パンの創業者・盛田善平、ミツカンの創業家・中埜家、洋裁教育に一生を捧げた吉房千代、元東京電力会長で第7代経団連会長・平岩外四、元東芝会長・岩田弐夫、哲学者で元法政大学総長・谷川徹三 等、そうそうたるメンバーを輩出している。 知多市歴史民俗博物館の入り口にアキニレの木がある。あまり見ることのない木で、ハルニレとはまったく違う姿かたちをしている。 ぐるっと一回りして来る。気持ちのいい青空の下で、学生らが思い思いの練習をしていた。陸上競技場