□ 大往生 その2 その一部始終
♪ 悲しみかはたまた安堵かじんわりと明星の光(かげ)の胸に満ちゆく 28日に義父が急逝して慌ただしく過ごした顛末を記しておくことにする。弱っている高齢の義母(88)も(ボケが始まっていてあまりよく認識していないらしいが)、このことを切っ掛けにして急速に生きる気力を無くしてしまう心配もあるし、同じことが起こる危惧もあってあらましを残しておく。 第一発見者の夫である私は部外者として扱われ、ほとんど質問されることもなく眺めているだけだった。それで、客観的な目線で見ていることができた。 発見した時、かなり気が動転していたようで、電話の声は叫びに近かった。「今から救急車を呼ぶので、すぐ来て!」と言われて自転車で、上りの長く続く坂を必死で漕いでヘロヘロになって着いたときには、既に救急隊員が死亡を確認していた。 それから救急隊員に遺体の状況などの説明を求められて、食事のことや体調のことはもちろん、既往症や飲んでる薬、通院の状況など事細かなことを聞かれる。警察も来ていて再び同じことを聞かれ、さらに、お金は盗られていないかどうかの確認、玄関のかぎの扱いはだれがどうしているか、合いかぎが何本あって全部あるかどうか。お金の管理はどうしているか、年金の受け取りの通帳はどうなっているか。その通帳のコピーが欲しいとか、とにかく先ずは疑いの余地を残さないように徹底的に調べていく。義父母の結婚した時期や本籍地まで聞かれている。 今度は刑事がまた同じことを聞く。しかし、警察官も同席しているのである程度省かれての聞き取りだが同じようなことが繰り返される。やましいことがあれば辻褄が合わなくなり、答えが曖昧になったりすれば、おおよその見当がつくというもの。疑いがあれば署に同行を求められ、刑事が姉と妹を別々に入れ替わって調べることになる。 松本清張の小説「砂の器」が頭に浮かんだりする。世の中には様々なドラマがあり、人の闇の奥深さを刑事たちは日常の中で関わっていることを、そばで聞きながら改めて納得したりしていた。 疑われるようなものは何も無いと分ってもらえて、経験者に聞いていたものよりも意外に早く終わったようだ。キーポイントはたぶん、保険が掛けてなかったことかも知れない。保険なんか親も娘も必要ないという信念のもとに生きてきた。そんな金銭で問題になるようなものは全くないので、詮索の余地はなかったわけだ。 警察が、一応遺体を調べる検案(検死とは言わない)のためにと、運び出して行った。そういうマニュアルになっているらしい。「担当してくれる医者を探しています」という電話が午後2時に頃入り、事件性が疑われるものは無かったとの報告があったのが午後4時過ぎだったか。 その間に市運営の知多斎場に連絡。ここに葬儀の施設があるのを、以前新聞チラシで知ってそのチラシが取ってあったのが役に立った。民間よりもかなり安くできるのと、両親を早くに亡くして孤児だったという義父には身寄りも少ないので、身内だけで質素に済ましたいという意向もあった。義母も部屋に残してのことなので、お通夜も省いて近親者だけで一日で済ませられるプランにしてもらった。 検案の結果を出すにあたって、死亡推定時刻が何時になるかで葬儀の日程が決まる。どうやらその日の朝8時半ごろだったとのことで、単純にそれから24時間後には荼毘に付することが出来る。しかし、その検案の医師の裁量で書類に記入したときを死亡時刻とする場合があるらしいく、そうなると翌日にずれ込んでしまう。でも、検案の時刻が死亡時刻となっていたのは有難かった。 担当のクリニックからは、翌日の11時に取りに来てくださいと言われたが、それでは遅いので早くもらえないかと問い合わせると、大丈夫とのこと。医師の検査の内容を説明するためにその時間をとってくれていたらしい。「すでに警察の方から聞いているので大丈夫です」と言ったらOKが出たというわけだ。死因は「虚血性心疾患」で、心臓が以前から弱っていたらしい。それでも苦しむことなく長寿を全うされて、老衰と言ってもいいものだった。 最初の案通りに執り行うことが出きた。年末休暇に入った矢先のことだった。もう一日延びていたらと思うと最高のタイミングだったわけで、最後まで家族思いのお祖父さんだった。感謝するばかりです。 お寺もお墓もないので当然宗派も関係ない。以前にお世話になっていたところの縁でキリスト教の信者ではあったものの、最近はそことも疎遠になっていた。キリスト教の葬式もなかなかいいもので、敬虔な信者なら神父さんに来ていただきくのが筋かも知れないが、それもちょっと憚られた。喪主の長女は、お通夜がないのはいくら何でも寂しいと思ったようだが、人が死ぬというのはごく自然のことだし、ましてやほぼ老衰の大往生なのだから、本来だったお祝いしたいくらいのもの。 葬儀なんて、元々はお寺のお坊さんが亡くなった時にしていた儀式を、金儲けのために一般に広げたも。葬式仏教に成り下がったお寺の金儲けに利用されるのは御免だという意識もある。世はまさにお寺離れがようやく一般の人にも及んできていて、そのムーブメントが正しい形で勢いを増している。コロナ禍と併せ持って世の中が “本当に重要なものは、それとは違うんじゃないの” という意識に目覚めて、変わっていく黎明期に入っていることを感じている。今回のことで留飲を下げる思いがしないでもない。 葬儀は、こじんまりとした部屋一室の施設で何ものにも煩わされることなく、我々だけでお祖父さんとのお別れをじっくり味わいながらできたのは、とてもよかったと思う。「まごころ葬儀株式会社(市の委託を受けている)」が、警察へ受け取りに行った段階では裸のままで袋に入れられて戻って来る。それを納棺師がきれいに整え、服を着せて化粧を施してくれる。それを間近で美しく整えられていくのを眺めながら、一番年が近い私は、お祖父さんの来し方を思っていた。「仏様みたいな人」と言われたりして誰にでも好かれた人柄や、世間に対する不平や文句も言わず、いつも正座をして背筋をピンと伸ばしていた姿や趣味の木工技術は独学でマスターし、あちこちから部屋の改装を頼まれて実益も伴っていたこや(私もオーディオラックを作ってもらい、部屋の扉や作り付けの立派な収納棚などを作ってもらった)など。実直で悪いところが見つからない真面目一直線の人生だったことを改めて思い、感慨深かった。 納棺の儀には、控室で参加者全員で折り紙を折り、ひ孫たちにも囲まれて花と一緒に遺体を飾ってあげた。穏やかな顔は、今にも目を覚まして何か言いそうに思えるほど。「お疲れ様」を言って蓋をし、出棺。火葬場に隣接しているので何かと都合がよく、炉に入れる準備までスムーズに進行していく。全員で線香手向けて、お別れをした。焼却には1時間半かかるらしい。 葬儀総額 297,800円(税込327,580円)- 写真 16,800円、納棺の儀 43,000円を含む 別に知多斎場量料(火葬料)9,180円、検案(死亡診断)30,000円(検案 25,000円 検案用紙 5,000円)医師は5万円を上限に自由に設定できるらしい。 もしこれが、一般の家庭の通常の葬儀となればこんなのじゃ済まない。嫌でもしなければならないことが山ほどあって、ゆっくりとお別れや悲しみに浸っている暇などない。亡くなった当人は何も知らないところで、家族は嵐にでも巻き込まれたような数日間を過ごすことになる。 それもこれも、「しきたり」という伝統的な訳の分からない理屈の中で発展してきた、一般常識という幻影に翻弄されるわけだ。メンツと虚勢とエゴと断ち切れない血縁が絡み合って、抜き差しならない仕組みとなっている。これらのものが同じ形で永遠に続いていくことはあり得ない。