帯刀という名前
小説家 中村 彰彦武士階級に生まれた男子は、生涯に何度か名前を変える。今年国宝に指定された松江城天守閣を築いた江戸初期の大名堀尾(ほりお)吉(よし)晴(はる)の場合、幼名は仁王丸、その後は小太郎のち茂助という通称を用い、言+偉(いみな)は吉晴である。江戸時代の通称としてよく用いられた名の一つに「帯刀」がある。薩摩藩家老として討幕を決断した小松帯刀、奥羽越列藩同盟に参加してその薩摩藩に対抗した越後長岡藩の家老山本帯刀などはその中の有名人だ。ところで帯刀は、なぜタテワキと読むのか。五年半ほど前、ある長編小説を書き始めた私はにわかにそれが気になってあれこれ調べてみた。すると、以下のようなことがわかってきた。帯刀は元々はタチハキと読み、太刀を帯びること、また、その人を意味した(『日本国語大辞典』)。太刀を左腰に吊るすことは「太刀を佩(は)く」と表現するからだ。舎人といえば古代の貴族たちの雑用係だが、この者たちの中で太刀を佩用(はいよう)しているのが「タチハキの舎人」。これは雑用係からガードマンへ特化した者たちだろう。そこから「タチハキの舎人」たちのトップは「タチハキの長」と呼ばれ、特に東宮坊(皇太子の御殿)を守るトップは、「帯刀(たちはき)先生(せんじょう)」と名付けられてこれがそのまま官職とされた。本稿の最初に名前の出た堀尾吉晴は、太閤秀吉に仕えて従五位下(のち従四位下)と右の官職を与えられた人物。だからかれは、公式文書に署名するときは「堀尾帯刀先生吉晴」と書いた。ただし私は、この人物の生涯を描く『戦国はるかなれど』(光文社)を書くうち、ひとつ発見をした。吉晴のことを掘尾帯刀と記録する資料もあるのだ。してみると秀吉の時代あたりからタチハキの読みはタテワキとなり、人名に使われるようになったのだろう。【言葉の遠近法】公明新聞2015.12.9