元初の誓い貫いた妙法の巌窟王
元初の誓い貫いた妙法の巌窟王戸田先生が生まれたのは、1900年(明治33年)2月11日。二つの世界大戦に象徴される激動の20世紀を生きた恩師は、「この地球上から悲惨に二字をなくしたい」と根が、妙法流布に一人立ち上がった。ここでは、池田先生がかつて、戸田先生の生涯について言及した三つのテーマをもとに、恩師の足跡を紹介する。 今から120年前の1900年(明治33年)2月11日、戸田先生は石川県・塩屋村(現・加賀市塩屋町)で生まれた。その後、北海道・厚田村(現・石狩市厚田区)へ移り、20年(大正9年)に上京するまで北海道で暮らした。厚田の尋常小学校で学んでいた時のこと。成績優秀で、よく読書にも励んでいた戸田先生には、意外な〝あだ名〟があった。「ナポレオン」である。世界史の授業の折、教師がフランスの英雄・ナポレオンについて説明したが、その中に間違いがあった。戸田先生が誤りを指摘し、教師に代わって講義したことから付けられた。戸田先生の胸には、ナポレオンのごとく、必ず何かを成し遂げるとの情熱が赤々と燃えていた。16歳のときに詠んだ歌には、当時の大きな志が表れている。「太平洋 我漕ぎ出でん 小舟にて 決心かたし岩石よりも」戸田先生は、尋常高等小学校を首席で卒業した。だが、家計を助けるため、進学を断念。札幌にある雑誌問屋に年季奉公に出た。朝から夜遅くまで働きながら、寸暇を惜しんで勉学に打ち込んだ。17年(同6年)に尋常小学校准教員の検定試験に合格。真谷地(現・夕張市民)の尋常小学校に奉職した。19歳のときに上京した戸田先生は、生涯の師となる牧口常三郎先生と出会う。戸田先生の母は、旅立つわが子に、「どんなに苦しいことがあっても、これを着て働けば、何でもできるよ」と、夜を徹して縫い上げたアツシのはんてんを贈った。母の慈愛がこもった織物は、先生の生涯の宝となったのである。 師 弟「報恩の誠」尽くし抜く池田先生は、戸田先生の生誕110周年の折、恩師の生涯について言及した。1点目は「師弟」である。創価学会の創立記念日は11月18日。1930年(昭和5年)11月18日、『創価教育学体系』の発刊が淵源である。牧口先生の教育学説を集約した『創価教育学体系』出版のために、戸田先生は現行の整理や資金の提供を申し出た。完成した『創価教育学体系』の表紙の題字と牧口先生の著者名は、金文字で飾られた。そこには、師の学説を宣揚しようとする、戸田先生の弟子としての赤誠が込められていた。28年(同3年)、牧口先生と戸田先生は、日蓮仏法に帰依している。当初、2人の師弟は教育改革をもって、人々の幸福、社会の繁栄と平和の実現を目指していた。しかし、「教育革命」の根底には、真実の仏法がなければならないことを自覚して、「宗教革命」の道を進んだ。だが、やがて軍部政府が思想統制を強めていく。迫害を恐れた日蓮正宗の宗門は43年(同18年)6月27日、牧口先生、戸田先生らを呼び付け、「神札を受けてはどうか」と迫った。巻く愚痴先生は原価に拒否し、同年7月6日、牧口先生と戸田先生は、治安維持法違反と府経済の容疑で逮捕された。苛酷な獄中闘争の中、戸田先生は一日1万遍の唱題を重ね、法華経の精読を始めた。そして、44年(同19年)春、「仏とは生命なり」と覚知する。さらに、獄中での唱題が200万遍に達しようとしていた同年の11月中旬、「われ地涌の菩薩なり」との悟逹を得る。この恩師の「獄中の悟逹」について、池田先生は小説『新・人間革命』第22巻「新世紀」の章に、こうつづった。「創価学会の確信の精髄は、戸田城聖先生の『獄中の悟逹』にある」「『われ地涌の菩薩なり』との悟逹こそが、学会の魂である。その戸田という師に連なる時、学会は広宣流布を使命とする『創価学会仏』たり得るのである」戸田先生は、法悦に身を震わせながら、「これでおれの一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、おれは生涯を終わるのだ!』と、「地涌の菩薩」の使命を捧げることを決めた。元初の誓願に一人立ったのである。この年の11月18日、牧口先生は獄中で生涯を閉じた。45年(同20年)1月8日、その事実を知らされた戸田先生は、心に誓った。〝よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう〟同年7月3日、生きて獄門を出た戸田先生は、広布への大願に一人立った。師への報恩の誠を尽くす誓いの炎は生涯、燃え続けた。牧口先生の3回忌法要の席上、戸田先生は語った。「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」ここに、学会の師弟の真髄がある。師弟とは、弟子の自発的な意志があってこそ成立する「魂の結合」なのである。 民 衆苦労する人の味方となれ2点目は「民衆」である。戸田先生は常に、「民衆の中に飛び込んでは、一人一人が抱える悩みに耳を傾けた。会合や御書講義の折には質問会を持ち、信心への確信を呼び覚ました。第2代会長に就任した後、東京・市ヶ谷にあった学会本部の分室には、恩師の指導を求め、多くの会員が訪れるようになった。ある日、農業を営む壮年が「幸せになれそうもありません」と打ち明けた。対話に歩いても歩いても、誰一人として聞いてくれないという。戸田先生は語った。「折伏ということは、難事中の難事だと大聖人もおっしゃっている。生命力を強くして、焦らず、弛まず、やらなければならない仏道修行なんです。3カ月で落胆するようでは、生涯にわたる信仰者の態度とはいえない。しかし、あなたは、もうすでに折伏を実践しているではないか。それだけでも大したことなんです」だが壮年は、うなだれたままだった。長年、出自による、いわれなき差別を受けていたのである。壮年が苦悩を明かすと、戸田先生は抱きかかえるように励ました。「世間が、どんなにあなたを迫害しようが、創価学会には、そんな差別は絶対にありません。戸田は、あなたの最大の味方です。また困ったことがあったら、いつでも私のところに来なさい」苦悩や経済苦、子どもの非行など、悩みは千差万別であった。時には、学会のリーダーの姿もあった。戸田先生は、どんな人であれ悩みがあって当然だと、大きく包容した。戸田先生自身、幾多の辛酸をなめてきた。24歳の時には、生後7か月の長女を亡くした。そのつらさを知る先生は、子どもを亡くした東北の同志に手紙を送り、「可愛さのため死んだ子を夫婦で抱いて寝た時の悲しみと苦しみは、今なお胸の中に生きている。さぞ君も悲しかろう。ことに奥様の心を思えば、なんとなぐさめて上げてよいのか解らない」と、深く寄り添っている。学会本部の分室の個人指導は、本来は午後2時から午後4時まで。だが、午後5時を回るのが常だった。連日のように、戸田先生は3時間を超す真剣勝負の個人指導を続けた。それは、激しい疲労を伴った。まさに自らの命を削って、一人一人に〝希望の光〟を届けたのである。恩師が個人指導に力を注いだことを通し、池田先生は小説『新・人間革命』第26巻「勇将」の章に、こう記している。「幹部の皆さんの、会合での指導と、個人指導の比率は、八対二ぐらいではないかと思う。しかし、二対八を目標にしていけば、もっと人材が育ちます。学会も強くなっていきます」苦しむ人の味方となり、立ち上がるまでエールを送り続ける――この「励ましの世界」こそが創価学会であることを、戸田先生は示したのである。 青 年偉大な弟子を育てた3点目は「青年」である。「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」この「青年訓」を戸田先生が発表したのは、男女青年部が結成された2カ月後の1951年(昭和26年)9月である。当時、男子部の班長だった池田先生は、恩師の言々句々を心に刻みつけた。同年11月、学会の第6回総会の席上、池田先生は「青年の確信」と題して発表した。「じつにじつに宗教革命の道のいかに苦難であるかは、覚悟のうえです」その宣言は、「青年訓」に対する弟子としての〝報恩の決意〟にほかならなかった。翌52年(同27年)、蒲田支部の支部幹事の任命を受けた池田先生は、2月に一支部で「201世帯」という日本一の弘教を達成。戸田先生の生涯の願業である「75万世帯の弘教」の突破口を開いた。この就き、戸田先生は青年部の教学研さんの成果を競う第1回「研究発表会」に出席し、全人類が一つの地球民族であるという「地球民族主義」の理念を提唱した。また、57年(同32年)9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で開催された『若人の祭典』では、青年への「遺訓の第一」として、「元水爆禁止宣言」を発表した。「地球民族主義」も、「原水爆禁止宣言」も、戸田先生が発表の場に選んだのは、青年部の集いであった。その恩師の思想を、池田先生は世界に宣揚し続けてきた。◇◆◇戸田先生が青年に強く望んだのは、広布に「一人立つ」ことである。54年(同29年)に発表した「国士訓」で、「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん! 三人はまた続くであろう」と訴えた。この一人立ち上がった青年こそ、池田先生である。恩師が薫陶した不二の弟子は、文教、札幌、大阪、山口など、各地で勝利の金字塔を打ち立てた。58年(同33年)3月16日、6000人の青年が集い、広宣流布の祈念式典が挙行された。戸田先生は「未来は、君たちに任せる。頼むぞ、広宣流布を!」と、池田先生をはじめとする青年たちに、後事の一切を託した。同年4月2日、元初の誓いを貫いた恩師の崇高な生涯は、58年で幕を閉じた。この日、池田先生は日記に「われは立つ」と書きとどめている。「妙法の巌窟王」の精神を継いで、池田先生の不惜身命の闘争によって、創価の人間主義の連帯は今、世界192カ国・地域へと広がった。小説『新・人間革命』第2巻「先駆」の章につづられている。「〝後継〟と〝後続〟とは異なる。後方の安全地帯に身を置き、開拓の労苦も知らず、ただ後に続く〝後続の人〟に、〝後継〟の責任を果たすことなどできようはずがない。〝後継の人〟とは、勝利の旗を打ち立てる〝先駆の人〟でなければならない」広宣流布は「一人立つ」青年から始まる――いかに時代が変わろうとも、この方程式は不変である。 【戸田城聖先生 生誕120周年 記念特集】聖教新聞2020.2.11