題目で我が一念の変革を
題目で我が一念の変革を臆病や弱さは、あきらめを生み、「もう、だめだ!」「これ以上はできない」と、自分の壁をつくり出してしまう。また、慢心は、油断と安逸を生み、敗北の墓穴を掘る。その心を打ち破り、自らを折伏するのだ。壁を破るには、腹を決めることだ。断じて成し遂げてみせると、一念を定め、御本尊に誓願の題目を唱え抜くのだ。◇日蓮大聖人は、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちと(唱)なへゐ(居)させ給へ」(御書一一四三㌻)と仰せである。この「苦をば苦とさとり」とは、苦悩から目をそらすのではなく、仏法の眼を開き、真正面から向き合って、現実を達観していくことである。すると、病も、老いも、決して単なる苦しみではなく、信心を奮い起こし、深めるための契機であることが自覚できよう。また、悩み、老いゆく姿の中にも、仏法を証明しゆく使命の道があることに気づく。「楽をば楽とひらき」とは、得られた安楽を、さらに、常楽へと開いていくのだ。それには、御本尊への感謝を持って唱題に励み、自らの境涯を高め、絶対的幸福境涯を確立していくのだ。ともあれ、苦しい時も、常に、題目を唱えきっていくなかに、崩れざる幸福の大道があるのである。◇御本仏の生命の当体である御本尊に、南無妙法蓮華経と題目を唱えていくならば、自身の生命が仏の大生命と境地冥合していきます。それによって、己心に具わっている仏の生命を開いていくことができるんです。その生命境涯が、「四徳」、すなわち「常楽我浄」であると説かれています。「常」とは、常住であり、仏、衆生の心に具わる仏の生命は、三世永遠であることを示しています。「楽」とは、苦しみがなく、安らかなことであり、「我」とは、何ものにも壊されない強靭な生命です。「常」とは、この上なく清らかな生命を言います。◇皆さんは、御主人の月給がもう少し高ければとか、もっと広い家に住みたいとか、子どもの成績もっと良ければなど、さまざまな思いを抱いているでしょう。その望みを叶えようと祈り、努力して、実現させていくことも大切です。しかし、最も大事なことは、どんな試練に遭遇しても、決して負けたり、挫けたりすることのない、自身の境涯を築いていくことです。すべての財産を失ってしまった。大病を患ってしまった。最愛の人をなくしてしまった—そんな事態に遭遇しても、それを乗り越え、幸福を創造していける力をもってこそ、本当の遊楽なんです。◇日蓮大聖人は、いつ命を奪われるかもせれないような佐渡流罪の渦中にあって、「流人なれども喜悦はかりなし」(御書一三六〇㌻)と言われている。この大境涯の確立こそ、信心の目的なんです。したがって、遊楽の境涯には、広宣流布のために、大難にも堂々と立ち向かっていく勇猛心が不可欠なんです。勇猛心なきところには、崩れざる遊楽はありません。◇試練に次ぐ試練、涙また涙というのが、現実の社会といえます。その中で人生に勝利していくには、唱題しかありません。信心強き人とは、何があっても〝題目を唱えよう〟と、御本尊に向かえる人です。その持続の一念が強ければ強いほど、磁石が鉄を吸い寄せるように福運がついてきます。次に、御本尊の力を実感していくうえでも、祈念は具体的でなければならないということです。また、日々、唱題の目標を決めて、挑戦していくこともいいでしょう。祈は必ず叶います。すると、それが歓喜となり、確信となり、さらに信心が強まっていきます。また、たとえ、すぐに願いは叶わなくとも、冥益となって、時と共に所願満足の境涯になることを確信していただきたい。◇強く生き抜いていくうえで必要なのはゆう気です。人生のあらゆる局面を左右するのは、勇気があるかどうかであるといっても過言ではありません。その勇気の心を磨いていくのが、信仰なんです。学会活動なんです。御書に「隋力弘通」「隋力演説」とありますが、各人の力に随って、仏法への率直な思いを、自分らしく、自分の言葉で、周囲の人に語っていけばいいんです。 大白蓮華2021年1月号