感謝で向き合う漁師こそ
民俗学者 川島 秀一 ■漁業権を守る 山口県の祝島は、上関原発予定地の真正面に位置している。この島の漁師たちは、30年間も、その電力会社からの漁業補償を拒否し続けている。 「会社が土地をうんと買い占めて、ここは、わしらの土地じゃけん入るなというが、海までは売っちょらんのだけんね」と語る。 岸から700メートル以遠の共同漁業権の範囲が許可された操業区域は、電力会社が決めた「温排水拡散海域」と重なっている。冷え込んだ海で好漁になるというサヨリ漁などに、打撃を与えるのは火を見るより明らかである。 ところが、12月8日、漁業権を地元の漁協や漁業者に優先的に割り当てる規定を廃止する水産改革関連法が成立した。宮城県が震災後に進めた「水産改革」は、背景に新自由主義に基づいた、海面への企業の自由参加を狙いとしている。水産業の国際競争に打ち勝つために、沿岸の養殖漁業5割に二分して、西欧並みになりたいらしい。しかし、そのほかの中間的な沿岸の小型漁船漁業に対しては、配慮が足りなくないだろうか。 このような沿岸の漁船漁業を営みながら、必ずしも多くの儲けはなくとも毎日が暮らせるなら、沖で漁を続けたいという生活は許されなくなるだろう。 改革でうたう、船ごとに「資源管理」と「生産力向上」の指標を与えられて目指す営みは、本当の漁業といえるだろうか。私がこの連載で書き続けてきたことと真逆の動きに、目をつぶるわけにはいかない。 私が今住んでいる福島県では、試験操業以外に、時にサンプル調査も行われている。漁師たちは「サンプル調査に限って、あまり魚がかからない」と語る。これは、人間が魚をとる意志が強いと、逆に魚を授からないという、全国的に伝えられている処世訓のようなものであり、一般的には「頼まれた魚は捕れない」というジンクスに近い。ある船主は、軽トラックに魚タンクを空(から)のまま積んでおくと、漁に恵まれないと語っていた。「いっぱい魚を捕るぞ」というところを見せると、いのちの海は魚を与えてくれないらしい。他の船では、氷をいっぱい積んで漁に出ると、あまり漁が思わしくないともかたっていた。 このようなことを考えると、「資源管理」も多く捕るか少なく捕るかの違いだけで、人間中心の海への向き合い方であることに違いない。その日に海から与えられた魚すべてに感謝しているのも、漁師であることを忘れてはならないだろう。 【いのちの海と暮らす 28=完】聖教新聞2018.12.27