日本のシンドラーと呼ばれれた外交官
日本のシンドラーと呼ばれれた外交官杉原千畝の晩年の言葉 大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。 リトリニアへの赴任大正七(一九一八)年、杉原千畝サンは英語教師を目指して、東京の早稲田大学に入学しますが、翌年、外交官養成のための官費留学生の試験に合格、満州(中国東北部)に渡ってロシア越えお学び、大正十三(一九二四)年、外務省書記生としてハルピンで就職します。その六年後の昭和六(一九三一)年、満州事変が勃発、翌年三月には満州国が建国されました。杉原さんは満州国の外交部に派遣され、ソ連との交渉などの仕事に当たることになりましたが、当時、満州国で実権を握っていた関東軍は反日運動が起こるとそれを徹底的に鎮圧しました。杉原さんは後にこう語っています。「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それががまんできなかった」昭和十(一九三五)年七月一日、七杉原さんは満州外交部を辞任します。一説には、スパイとして活動する見返りに金を提供するという軍部の申し出に嫌気が差したからだともいわれています。いずれにしても、杉原さんは、日本に帰国して外務省に復帰、この年、幸子さんと出会い結婚します。そして、昭和十四(一九三九)年、大きな転機が訪れます。リトリニアに領事代理として赴任することになったのです。しかし、赴任した三日後の九月一日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まります。さらに九月十七日にはソ連もポーランドに侵入、昭和十五年(一九四〇)年には、ソ連がリトリニアに武力進駐し、七月にはソ連に事実上占領されてしまいます。そして七月十三日、杉原さんのもとにソ連から、八月二十五日までに領事館を閉鎖し、明け渡せという命令が届きます。その五日後の七月十八日の朝、杉原さんは領事館の周りに百人ほどの人びとが集まっているのに気づきます。「とっさに私は、これはただごとではない。何か知らぬが、兎に角当領事館に要件があって来襲したものに違いないと直感しました」(杉原さんの手記より)集まってきた人びとは、ドイツに占領されたポーランドから逃れてきたユダヤ人難民でした。 千畝の苦悩この頃、ヨーロッパの各地でナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺が始まろうとしていました。杉原さんの前に現れたユダヤ人は、そんなナチスの迫害から逃れようとポーランドを脱出してきた人たちでした。日本を通過した国へ脱出したい——そのためにトランジットビザ(通貨ピザ)の発給を求めていたのです。当時の日本は人種平等を掲げていたものの、外務省は「必要な書類を持っていない者に対しては通過ビザを発行しない」という方針を示していました。しかし、杉原さんの前に集まったユダヤ人の大部分は、着の身着のままでポーランドを脱出したため、ビザを受けるために必要な書類や旅費を持っていません。杉原さんは外務省に、「ユダヤ人たちの申し出は、人道上どうしても拒否できない。形式にこだわらず、領事が適当と認めるものがあれば発給してもよいのではないか」と電報を打ちます。しかし外務省からの回答は、「大集団の入国は、公安上、旅客安全上からも、トランジットビザといえども発給してはならない」というものでした。領事館の前のユダヤ人の数は日増しに増えていきますが、杉原さんの一家は、毎日窓の外のユダヤ人たちを見守ることしかできませんでした。七月二十九日の朝、杉原さんは幸子さんの傍らに立ちました。夫が幾日も眠れない夜を過ごしたことを幸子さんは知っていました。杉原さんは幸子さんに尋ねました。「ビザを出そうと思うけど、どう考える。私たちもただではすまない。連れていかれるかもしれない。みんな捕まるかもしれない」幸子さんは答えました。「私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてあげてください」杉原さんは手記にこう記しています。「ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、4旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビザを拒否してもかまわないとでもいうのか。それが果たして国益に叶うことだというのか。苦慮のあげく、私はついに結論を得ました」そして、そして、領事館の扉は、門の前に前に立つすべてのユダヤ人に向かって大きく開かれました。杉原さんは、食事もろくにとらず、朝から夕方遅く、手が動かなくなるまでビザを書き続けました。七月二十九日に発給したビザは百二十一枚、杉原さんは、以後一日平均およそ七十枚のビザを一カ月近くにわたって発給したのです。九月五日、ついに杉原さん一家がリトリニアを去る日が来ました。一家は、ベルリンへ向かう列車に乗り込みました。ユダヤ人たちは駅のホームに群がってビザの発給を求め続けました。杉原さんは、一枚一枚ビザを発給し続けました。そしてついに出発の時間になりました。「許してください。もうこれ以上書けない」杉原さんが発給したビザの数は、千二百三十九枚。ビザによって命を救われたユダヤ人はおよそ六千人といわれています。 イスラエル大使館からの電話その後、第二次世界大戦中、杉原さんはドイツのケーニヒスブルクやルーマニアのブカレストの領事館駐在を経ます。そして終戦後の昭和二十二(一九四七)年四月、杉原一家は日本に帰国しました。杉原さんは四十七歳になっていました。ある日、杉原さんは外務省の呼び出しを受けました。それは退職の勧告でした。杉原さんはその後、貿易会社に勤めたり、翻訳や語学指導に携わるなど職を転々としましたが、ユダヤ人へのビザ発給については、あえて語ろうとはしなかったといいます。昭和四十三(一九六八)年八月、杉原さんのもとにイスラエル大使館から電話がかかってきました。大使館で待っていたのは、杉原さんが二十八年前にビザを発給したユダヤ人の一人でした。彼らは、外務省を退職して消息が分からなくなった杉原さんの行方をずっと探し続けていたのです。そして昭和六十(一九八五)年十一月、イスラエルのエルサレムの丘に杉原さんの顕彰碑が建てられました。杉原さんは病気のため、もはやイスラエルに赴くことはできなくなっていました。かわって出席したのは息子の信生さん方病床の杉原さんに手紙が届きました。手紙はこう綴られていました。「握手をする手も休めないほどで、皆、本当に心から感謝している眼を見ると、僕はこんなに立派な両親をもって幸せだと改めて思いました」そのとき、杉原さんの目は熱く涙ぐんでいたと幸子さんは書き残しています。その半年後の昭和六十一(一九八六)年七月、杉原千畝さんは息を引き取りました。八十六年の生涯でした。平成十二(二〇〇〇)年十月十日、記念のプレートを設置する式典が外務省の外交史料館で行われました。「勇気ある人道的行為を行った外交官・杉原千畝)とプレートには刻まれています。「生きるか死ぬかの問題だった」杉原さんは晩年こう語りました。「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」 【その時歴史が動いた「心に響く名言集」】NHK『その時歴史が動いた』編/知的生き方文庫