所得では決まらない満足度
所得では決まらない満足度米ブルッキングス研究所 キャロル・グラハム博士 自ら切り開く人生こそ幸福。共に高め合う絆を生む社会へ 人々が幸福を実感できる社会とは、どんな社会だろうか。「人生100年時代」において大切な、こうしたテーマを長年、思索し、世界各国での実証研究を踏まえて、〝答え〟を提示してきたのがグラハム博士である。 故郷のペルーで貧困の実情を間近にみた経験から、私は開発経済を専門としました。1990年代後半に、首都リマの貧しい地域を対象に行った調査があります。過去19年間の生活水準の推移をみると、客観的には、多くの人が貧困状態から抜け出したにもかかわらず、彼らに経済状態を尋ねると、半数以上が「悪い」か「とても悪い」と答えたのです。同様の調査を行ったロシアでも、同じような傾向性が見られました。90年代から目覚ましい経済発展を遂げた中国に於いては、経済成長の恩恵を最も受けた人たちが、最も低い幸福度を抱いていたという調査もあります。人生の満足度は、所得だけでは決まらないことを明確に示していたのです。これらの現象は、私が「幸せな農民と不満な成功者」と呼ぶもので、この謎が解明の私の主たる研究になりました。リチャード・イースタリンやダニエル・カーネマンら著名な経済学者とチームを組み、心理学者と強調しながら、幸福度に関する研究に本格的に乗り出しました。多くの人、特に経済学者らは、初めは懐疑的な目を向けましたが、世界各国での調査がペルーや中国でのそれと同じ傾向を示したことで、関心も高まっていきました。やがてイギリス政府が人々の幸福度を測定するようになり、さらに私は、米国科学アカデミーの一員として、アメリカの公共政策に幸福の指標を取り入れる過程にも携わりました。私たちに対する見方は百八十度変わり、今では、幸福の決定要因についてさまざまな研究が行われています。代表的な要因として、所得や年齢、健康、教育、友情、社会のつながり、仕事、他者への奉仕などのほか、私の最近の研究テーマである「希望」が挙げられます。 希望を出せてもよい穂図の人生100時代を迎え、日本は少子化・人口減や労働環境の行き詰まりなど、社会に潜む不安要因を多くの識者が指摘する。グラハム博士もまた、アメリカにおける希望の欠如に警鐘を鳴らしている。 私の最新の研究では、アメリカの貧しい人種・民族的マイノリティー(少数派)の人たちは、同じく貧しい白人と比べて、はるかに楽観的であることが分かっています。たとえ経済的に恵まれず、ふびんな生活を送っていても、マイノリティーの人たちは、より豊かなレジリエンス(困難を乗り越える力)を備えているが、その理由として考えられます。一方で、白人たちの間で自殺や薬物による死が急増していることが、深刻な問題となっています。白人と言えば、かつては製造業や鉱業などに従事する「ブルーカラー」の労働者たちが多く、生活は約束されていました。「オジーとハリエットのような家族」と称される、両親とその子どもたちが幸せに暮らす理想の家庭を実現し、社会的な成功と仕事の安定を得て、地域社会でも尊敬を集めていたのです。当時、福利厚生の恩恵を受けてる人は〝敗者〟である、とさえ言われたものです。しかし、製造業や鉱業が推定すると、白人たちは熱中できる対象や生きる目的を失い、やがて家族の絆断絶してしまいました。彼らには、アフリカ系アメリカ人にとっての場プチスト教会のような、昔から所属しているコミュニティーなどもなく、結果として、孤独に陥ってしまうのです。今、25歳から54歳までの働き盛りの男性たちの孤独が懸念されています。仕事もなく、親が暮らす実家で、一日中、ゲームをして過ごすのです。彼らには希望がなく、健康にも大きな問題を抱えています。この、孤独や希望の欠如といった問題は、アメリカに長年存在してきました。ロバート・パットナムは『孤独なボウリング』などで、20年近く前からコミュニティーの崩壊を訴えていますが、状況はさらに悪化しているといえます。 漠然とした不安が日々を覆う中になって、充実した人生を送る鍵は何なのか。 「今日に満足している」ことは、幸せな人生のごく一部でしかないでしょう。より深い意味での幸福とは、この人の持てる力を十分に発揮する能力や機会があるかどうかで決まります。このことは、たとえ収入が下がろうと、自らに決定権が与えられ、やりがいを感じられる仕事を、多くの人が選ぶという調査結果にも裏付けられています。私の著書『幸福の経済学』(日本経済新聞出版社)でも、イギリスでの数百人の調査に基づく実験研究を紹介しています。それによると、すぐに幸せになれる〝仮想の薬〟を飲むよりも、人生経験の機会を得て、自ら幸福を見つける道を選ぶ人が多いのです。 即座に幸福な気分になるよりも、幸福を確立するための「機会」を与えられることに、人々は充実と満足を感じる。全ての人に幸福を追求する「不可侵の権利」があると定めたアメリカ独立宣言をはじめ、歴史上、自由と権利を求める努力が繰り返されてきたゆえんである。 トマス・ジェファンソンが独立宣言を起草したとき、彼は、幸福になるための機会をいかに提供できるかに、思索を巡らせていたでしょう。「幸福の追求」は依然として、アメリカで大切にされている言葉でもあります。だからこそ私の近著『Happiness for All?』(未訳)では、ストレス社会に生き、不安を抱え、劣悪な環境下で労働を強いられる多くのアメリカ人が、そうした「機会」を得られていない様子を描きました。その点で紹介したいのは、イギリスのある田舎町での事例です。遊文物の配達料もそう多くないことから、町は郵便局を閉鎖する案が持ち上がりました。閉鎖しなければ郵便局長や配達員を雇い続けなくてはならないため、費用対効果の観点から見れば、「閉鎖」は合理的です。しかし、その町で行われた幸福度調査によると、特に高齢者住民にとって、郵便局を訪れることは、一日でもっとも重要な時間であることが分かりました。彼らはそこで交流し、社会のつながりを保っていたのです。ゆえに郵便局を失うことは、幸福度の観点からは、悪影響をもたらすことになります。この話が示唆するのは、人々が幸福を実現できる社会であるということです。そして、利益や損得を超えて、共に人生を高めあい、生きがいを与えるような絆を生むことを、強く推進していく社会ではないでしょうか。 日本は、世界一の長寿国。長く生きるからこそ、人々が関わりあえるコミュニティーの存在が大切となる。人生100年時代に対する、博士の展望と期待を聞いた。 まず、100年物海田を生きる人たちは、人生を豊かにする方途を、自らが最も熟知しているのではないでしょうか。実際に、より幸福な人ほど、より長生きするというデータもあります。年齢別の幸福度を見ると、中年世代にある特徴があります。『幸福の経済学』でも紹介していますが、中南米諸国とアメリカを対象に行った調査では、年齢と幸福度の間に「U字形」の関係があることが分かりました。具体的には、年齢を重ねるごとに幸福度は下がり、40代半ばは、もしくはその後半で底を突いた後、上がり続けるのです。二つの関係性に変化が生じる40代の中年期とは、まだ自立していない子どもがいて、その上、親に依存される場合があります。そして、理想や野心を追い求めること以上に、現実的な人生の選択が重みを増していく時期です。以上のような要因から、ストレスを強く感じるのが40代であるといえます。一方、幸福度は40代の後半以降、上がり続けます。心理学者によれば、さまざまな苦労や予期せぬ出来事に対処した経験を踏まえ、人生の後半木は感情の揺れ幅が小さく、より良く人生のかじ取りをできるのです。ゆえに、幸福度が増すのです。がむしゃらに働いてお金を稼ぐことに、最も重きが置かれていたのは、一昔前のことです。その社会の在り方は、さまざまな摩擦や競争を生み出しました。こうした反省を踏まえ、私たちは、どのような経済や社会の構造をつくっていくのか。人生100年時代にあって、深く思索しなくてはならない問いです。その上で、長寿社会と老後が延び、「働かない時間」が増える社会です。人々が孤独に陥らないよう、関わりあえるコミュニティーを作り出していくことが大切です。このつながりが、人々の幸福に寄与しますし、私たちは今、幸福度を効果的に測定・分析できる時代に生きています。そしてその成果を、未来に希望を生み出す糧へと変えていける、かつてない時代でもあるのです。 Carol Graham アメリカ・ブルキングス研究所「グローバル経済・開発プログラム」の上級研究員、同国メリーランド大学カレッジパーク校公共政策学部教授。オックスフォード大学大学院で博士号を取得。世界銀行チーフえこのミニスト室勤務、IMF副専務理事特別顧問、米州開発銀行副総裁特別顧問などを経て現職。世界中のデータを用いて幸福度の実証研究を行ってきた。『人類の幸福論』(2017年、西村書店)、『幸福の経済学』(13年、日本経済新聞出版社)の2冊の本訳書をはじめ、多数の著書・研究論文がある。 【ライフウォッチLIFE WATCH 人生100年時代の幸福論】聖教新聞2019.12.14