声にならざる声
「不幸によって不具にされた人間は、誰かに救いを求め得る状態にはなく、求めようという欲求すらほとんど抱き得なくなっている。だから、不幸な人間に対する共苦の情(コンパッション)は不可能事である。それがほんとうに生ずる場合は、水上の歩行や病人の平癒や、さらに死者の復活よりもおどろくべき一つの奇跡である」(シモーヌ・ヴェイユ「神を待ち望む」「シモーヌ・ヴェイユ著作集」大木健訳、春秋社)病気が治ったとか、使者が生き返ったとか、修行の結果水の上を歩けるようになったとか、空中浮遊とかの「奇跡(●)」をブッダは行ったのではないのです。ブッタが行ったのは、聞こえない「声」をしかと聴き届けるという、同苦の「奇跡(●)」なのです。いまも、教室の片隅で、機械の音のしなくなった町工場の事務所で、北海道のアイヌ・コタンで、重病の療養の施設で、沖縄の戦闘機のタッチ・アンド・ゴーの爆音の下で、東ティモールの山の中で、サラエヴォのコソヴォで、ルワンダで、チベットで、人々が、殊に、女性と子どもたちが、「声にならない声」を上げています。この「声」をしかと聴き届ける「奇跡の耳」を持ちたいと、いつも願っています。ちなみに、仏教の観音菩薩。敬愛する仏教学者辛島静志氏が最近、観音の語源についての画期的な論考を発表されましたが、信仰の次元からは、これは「観世音」つまり「夜の中の人びとの声を聴く」という意味に解釈されるでしょう。ぼんやりと聞くのではなく、まるで眼前に存在するのを「観る」ように、聴くのです。そのような心の態度、位相を「観世音」の語は示しています。神様みたいな観音さんがどこかにいるのではないのです。われわれの心に「声にならない声」を聴く態度、「観音の位相」、「奇跡の位相」を築かねばならないのです。 【ブッダは歩む ブッダは語る】友岡雅弥著/第三文明社