まことの信仰者とは
まことの信仰者とはそれは、決して特別なことではありません。人生には、いろいろなことがあります。しかし、〝何があっても、御本尊に向かい、唱題していこう!〟という一念をもち続け、堅実に、学会活動に邁進していくことです。そして、何よりも、自分の生き方の軸を広宣流布に定め、御本尊根本に、法のために生き抜いていく人こそが、真実の信仰者です。これまで、一時は華々しく活躍していても、退転して、学会に反旗を翻す人もいました。そうした人をつぶさに見ていくと、きまってわがままであり、名聞名利、独善、虚栄心が強いなどの共通項があります。結局は、自分自身が根本であり、信心も、組織も、すべて自分のために利用してきたにすぎない。いかに上手に立ち回っていても、やがては、その本性が暴かれてしまうのが、妙法の厳しさであり、信心の世界です。◇私は、ずいぶん、人から騙されてきました。利用され、陥れられてもしました。弟子と名乗る人の中にも、そうした人間がいることを知っていました。「あの男は下心があるから、早く遠ざけた方がよい」といってくる人もいました。それでも私は、寛大に接し、包容してきた。心根も、魂胆もわかったうえで、信心に目覚めさせようと、根気強く、対話しました。また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、指導も重ねました。なぜか――騙されても、騙されても、弟子を信じ、その後世に、全力を注ぎ尽くすのが師であるからです。それが、私の心です。しかし、悪の本性を露わにして、仏子である同志を苦しめ、学会を撹乱し、広宣流布を破壊するならば、それは、もはや仏敵です。徹底して戦うしかない。そこに、ちゅうちょがあってはなりません。◇すべては、因が乗り法という生命の法則によって裁かれていきます。因果は厳然です。その確信があってこそ仏法者です。私どもは、広宣流布のため、世界平和と人々の幸福のために、献身し抜いてきました。しかし、悪僧や、それにたぶらかされた人たちは、この厳たる事実を認識することができない。大聖人は、色相荘厳の釈迦仏を、悪人がどう見ていたかを示され、「或は悪人はすみ(炭)とみ(見)る・或は悪人ははい(灰)とみる・或は悪人はかたき(敵)とみる」(御書1303㌻)と言われている。歪んだ眼には、すべて歪んで移る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわりしてきたんです。世に憎まれることは、正義の証です。◇何かを成し遂げよう、改革していこうと思えば、必ず分厚い壁があり、矛盾に突き当たる。いや、現実は矛盾だらけだ。しかし、そのなかを、日々、聡明に、粘り強く、突き進むしかない。 【「新・人間革命」第2巻「民衆の旗」】