第17回 鎌倉帰還 創価学会教学部編
第17回鎌倉帰還創価学会教学部編 「師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし」配流の地・佐渡で、日蓮大聖人は、衣食にも事欠き、住む場所も劣悪な環境下で、念仏者らに命を狙われる危機にもさらされます。その仮名で、「開目抄」「観心本尊抄」などの重要な御書を次々と著されました。 日蓮仏法が全世界にと予言文永10年(1273年)4月に「観心本尊抄」を著された後、大聖人は翌5月に、「如説修行抄」を著し、大聖人が法華経を如説修行(仏が説いた教え通りに修行すること)されたように、不退転の信心に励んでいくよう門下一同に対して示されます。その翌月(閏5月)には、「顕仏未来記」で、大聖人が釈尊の未来記(未来についての予言)を証明したと述べ、さらに御自身の仏法が全世界に広宣流布していくと断言されています。「観心本尊抄」によって人類を救済する大法を確立された大聖人は、末法においては大聖人の仏法こそが全世界に広がっていくという遠大な展望を示されたのです。その他、佐渡の地から、下総国(現在の千葉県北部とその周辺)の富木常忍、鎌倉の四条金吾をはじめ、各地の門下に数々のお手紙を書き送られています。政治権力や宗教的権威がいかに結託して迫害しようとも、民衆救済という誓願に貫かれた「指定の絆」を断ち切ることは、遂にできなかったのです。 止まらない弾圧佐渡では大聖人に帰依する人が増えていました。それまで念仏を信じていた在家のものたちが、供養しなくなってしまうため、危機感を抱いていた念仏者らは集まって協議します。「このままでは、われらは飢え死にするだろう。どうにかしてこの法師(=日蓮)を亡き者にしたいものだ」(新1240・全920、通解)そして、念仏者をはじめとする初秋のものたちは弟子たちを鎌倉に派遣し、鎌倉幕府の要職を占めていた佐渡国守護・北条(大仏)宣時に讒言(事実無根の告げ口)します。「この御坊(=日蓮)が島にいることになりましたら、仏堂や仏塔は一棟も残らないでしょう。僧も一人もいなくなるでしょう。阿弥陀仏(の仏像)を火に入れたり川に流したりしています。夜も昼も高い山に登って、太陽と月に向かって大きな声を上げて、お上を呪っています。その声は、国(=佐渡国)全体に聞こえています」(同)念仏者らの讒言を聞いた宣時は、「佐渡国の者で日蓮道に帰依する者がいれば、国(=佐渡)から追放したり、牢に入れたりせよ」(同)と述べ、そのようなものを処罰するという下文などの命令文書を、3度に渡って出します(同、参照)。大聖人は、これらを「そらみぎょうしょ(虚御教書)(新1979・全1478)、あるいは「武蔵前司殿(=北条宣時)の私の御教書」(新1741・全1313)と呼ばれています。本来、鎌倉幕府の御教書(注1)を受けて出すべき命令を、宣時が独断で出したことを指して「架空の御教書」と断じられたと考えられます。大聖人は、佐渡での最初の冬を越したときに記された「佐渡御書」の中で、御自身が受けてこられた難について、「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(新1286・全957)と仰せられています。この御精神は、配流中も変わることはありませんでした。法華経を実践する者を、政治権力と宗教的権威が結託して迫害する構図は、鎌倉でも佐渡でも同じでした。配流した〝罪人〟とその門下を、さらに迫害しなければならないほど、大聖人の影響力は大きく、恐れられていたのです。大聖人は、門下たちも、御自身と同じように法難に打ち勝つよう励まされています。 「鎌倉へ討ち入りぬ」と凱旋 そして、大聖人並びに一門にとって、〝冬の時代〟は終わりを遂げます。文永11年1274年)2月14日、幕府は大聖人の赦免を決定します。幕府が元(大蒙古国=モンゴル帝国は1271年(文永8年)に国名を元(大元)とした)からの襲来への危機感を高め、自界叛逆難と他国侵逼難を予言した、すぐれた指揮者として大聖人の意見を聴取しようとしたと考えられます。大聖人は、3月13日に佐渡の真浦を発って鎌倉へ向かわれます。途中、敵対する多宗派の者たちが襲撃を計画しましたが、多くの兵士が護衛に付き添っていたため手を出せませんでした。そして26日、「鎌倉へ討ち入りぬ」(新1241・全921)と言われたように、堂々と凱旋されたのです。 衆生を助けるため平左衛門尉頼綱と対面 平左衛門尉頼綱と対面4月6日、大聖人は、平左衛門尉頼綱ら幕府関係者と対面されます。佐渡への流刑に処した鎌倉幕府に対して、大聖人は3度目の諌暁をされるのです。その思いを後に綴られています。「国を助けるために述べたにもかかわらず、これほどまでに憎まれたのであるから、赦免された時に、佐渡国からどこかの山中か海辺に身を隠すのが当然ではあるものの、このこと(=真言による祈禱は国を滅ぼすこと、諸州への帰依をやめ大聖人の主張を用いるべきこと)をもう一度、平左衛門に言い聞かせて、日本国で蒙古の攻めに生き残る衆生を助けるために、鎌倉に上ったのです」(新1958・全1461、通解)やむに已まれぬ民衆救済の慈悲の心で平頼綱らとの対面に臨まれたのです。頼綱の態度は、前に対面したときとは打って変わって、穏やかに礼儀正しいものでした。この時、大聖人は、「王が治める地に生まれたので、身は服従させられるようであったとしても、心は心服させられることはない」(新204・全287、通解)と述べられています。同席した者から、念仏や真言、禅についての質問を受け、大聖人はこれら諸宗について重ねて批判し、さらに真言宗が日本の国土の大いなる災いであると責められます。平頼綱が尋ねます。「大蒙古国(=元)は、いつごろ攻めてくるのでしょうか」と。大聖人は「今年は間違いありません」と予言し、さらに、真言師が祈禱を行えば戦に負けてしまうであろうと警告されました(新1241・全921、新205・全287、心292・全357、参照)執権・北条時宗は、大聖人に対して、西御門という鎌倉の一等地に住坊を立てて帰依しようと提案したと伝承されています(「三師御伝土代」、〈注2〉)、それが伝えられたのは、この対面の時であったとされており、他宗の僧とともに、大聖人にも蒙古調伏の祈禱をさせようとしたとも考えられます。〝謗法である諸宗の祈祷よめよ〟と、断固たる主張を繰り返す大聖人を懐柔しようとしたと思われます。もとより、大聖人が求めたのは個人的な優遇などではありません。大聖人の真意を理解しない幕府の提案を、大聖人が受け入れるはずがありませんでした。折しも、その2日後の4月10日から真言宗の僧・定清(加賀法印、阿弥陀堂法印)による祈祷が行われ、翌日には雨が降ったものの、12日になると大風が吹き、鎌倉に大きな被害を残しました(新1242・全921、心244・全317、参照) 池田先生の講義から大聖人は、大難をはるかに見下ろす大境涯であられた。幕府に赦免を乞うような卑屈な真似は許されなかった。幕府が非を詫び、尊崇の念をもって鎌倉御帰還を願う時がくることを、すでに確信されていたのではないだろうか。正義の勝利は、正義の言論、正義の行動によってもたらされる。権力にすりよって庇護を受ければ、かえって権力に利用される。そのことを大聖人は厳しく教えられたのでしょう。(『池田大作全集』第33巻) 幕府は警告を聞き入れず 「三度のこうみょう(高名)あり」大聖人は後に、「未萌(=前兆すら現れていないこと)をし(知)るを聖人という」「三世を知るを聖人という」という言葉を引いて、「余に三度のこうみょう(高名)あり」(新204・全287)と宣言されています。1度は、文永元年(1260年)7月16日、北条時頼に「立正安国論」を提出される際、仲介した宿屋入道に「禅宗と念仏宗とを退けなさい。さもないと自界叛逆難と他国侵逼難が起こる」と忠告を託された時です。2度目は、文永8年(1271年)9月12日、大聖人を捕らえた平頼綱に向かって「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失うは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり」(同)と獅子吼し、再度、自界叛逆難と他国侵逼難の惹起を警告された時です。3度目が、先ほど述べた文永11年4月8日の平頼綱との対面の時です。この際に、現実となりつつある他国侵逼難に真言の祈禱で対抗しようとすれば、かえって国が亡びると戒められています。自界叛逆難は既に起こり他国侵逼難も大聖人の予言通り、文永11年の内に元が来襲し、現実のものとなります。幕府中枢に対して3度にわたってなされた警告が的中するのです。大聖人の警告を傾聴するつもりが幕府にないことが明らかになると、「3度諫めても聞き入れられない時は、国から去る」という故事〈注3〉に従い、大聖人は同年5月12日に鎌倉を発って、甲斐国波木井郷(現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井とその周辺)の身延山に入られました。そして、末法万年の広宣流布のため、重要な法門を説き示されるとともに、大聖人と同じ誓願と行動を貫く人材を育成されるのです。(続く) 池田先生の講義から多くの高僧らも(=大聖人が二難予言の根拠とされた仁王経や薬師経)の文言は知っていたであろうが、そこに込められた仏の真意は分からなかった。しかし、大聖人は、同じ文言から、現実の民衆の苦悩の本質を洞察され、やがて襲い来るさらなる危機を予測された。その差は、民衆の苦悩への深い同苦があるか否かによるのです。何としても人々を幸福にと願う、仏の大慈悲があるかどうかなのです。大事を事前に察知する力は、まさに智慧の発現です。その智慧は、真剣にして深い慈悲の結実といえる。民衆に幸福をもたらす大事を未然に察知する智慧は、一切衆生を救済されんとする御本仏の大慈悲に基づくものなのです。(『池田大作全集』第33巻) 〈注1〉 鎌倉幕府では、将軍の意を受けて家臣が自らの名を署して、執権と連署連盟の関東御教書、六波羅探題・鎮西探題が出す六波羅御教書・鎮西御教書があった。「法華行者逢難事」での引用によると、宣時が出した命令書には、「自判これ在り」(新1303・全966)とある。宣時自身の名で発給されていることから、宣時が御教書を偽造したわけではないと思われるが、「そらみぎょうそ」という文言から、偽装したとする見方もある。〈注2〉 日道の「三師御伝土代」のうち、「日興上人御伝草案」を参照。日興上人の回想として残されている。〈注3〉 中国の古典である『礼記』や「史記」に記されている。 [関連御書]「種々御振舞御書」「如説修行抄」「顕仏未来記」「下山御消息」「窪尼御前御返事(虚御教書の事)」、「千日尼御前御返事(真実報恩経の事)」、「佐渡御書」、「高橋入道殿御返事」、「撰時抄」、「報恩抄」 [参考]『池田大作全集』第33巻(「御書の世界〔下〕」第十一章)、小説『新・人間革命』第11巻「躍進」 【日蓮大聖人 誓願と慈悲の御生涯】第白蓮華2023年10月号