経済成長に依存しない本当に豊かな社会とは
経済成長に依存しない本当に豊かな社会とはインタビュー 大阪市立大学大学院 准教授 経済思想家 斎藤 幸平さん 資本主義に挑む——昨年9月に出版された『人新世の「資本論」』(集英社)は、現在も版を重ね、多くの人に読まれています。同書の主題となっているのが、暴走する資本主義からの転換です。 資本主義を端的に表せば、「際限なく経済成長を追求するシステム」です。最終的にはこのシステムそのものを転換することを、私は提唱しています。そう提唱する理由は、現代の気候危機の原因をさかのぼると資本主義に行き着くからです。地球温暖化の原因である二酸化炭素の排出量は、資本主義が本格的に始動した産業革命(18世紀)以降に大きく増え始めたことが分かっています。資本主義の下で人類は、経済成長の代償を地球に押し付けてきました。今まではうまく回っていったように見えても、地球は有限です。ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、現代を、人類活動の痕跡が地球の表面を覆い尽くした「人新世」の時代と名付けました。人間の経済活動によって、資源は使い尽くされようとしています。その帰結は自分たちに降りかかります。最たる例が気候変動です。また、感染症のパンデミック(世界的大流行)が、人間の森林伐採によって住処を追われた野生動物が感染源となったと指摘されているのも、人新世の時代における象徴的な出来事といえます。気候変動については、ようやく多くの人が危機感をもち、各国がさまざまな対策を進めていますが、今のペースでは、この危機はもう解決できません。そうした思いで私は、「脱成長社会」への転換を訴えています。もちろんそれは究極的な目標で、実際には、大きな変化は少しずつしか起きません。しかし、時間がかかるからこそ、すぐに行動しなければならないのです。 格差と向き合う——マルクス(1818~83年)を通して、資本主義の在り方を展望されています。研究の原点になっている出来事は? 大きなきっかけは、格差を目の当たりにしてきたことです。わたしは日本の大学に3カ月間在籍した後、アメリカの大学に入学しました。2005年のことですが、当時の日本では、後の年越し派遣村につながるような労働者の貧困問題がすでに進行していました。こうした問題への理解を深めるために、マルクスを学ぶようになりました。アメリカで目の当たりにした格差は、日本以上にひどかった。とりわけ転機となったのは、ハリケーン・カトリーナ(05年8月)の被災地でボランティアをした経験です。黒人や有色人種が住む地域は、住居がいつまでも壊れたままで、復興が全く進んでいませんでした。豊かなはずのアメリカでなぜ、これほど厳然たる格差があるのか。労働者や貧困者に非があるわけではない。資本主義というシステムの問題だと確信し、それを研究で裏付けようとドイツの大学院に進みました。その直後の2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。このショックは大きかったですね。原発事故を機に、それまでは労働問題や経済格差を中心に詠んでいたマルクスを、環境という視点からも捉えるようになりました。実は、マルクスは、環境問題に大きな関心をもっていました。そうしたマルクスのエコロジカルな視点は事実、近年の研究でも明らかになっていますし、気候変動という私の研究の一つの柱につながっています。 ——私たちは資本主義を〝当たり前〟のものとして、受け入れて生きています。どのような視点で見つめ直すことが大切でしょうか。 先ほど資本主義は、際限なく利潤を生み続けるシステムであるといいましたが、そこでは利潤を生むために、あらゆるものが「商品化」されます。本来は共有であった土地や水などが、ゴルフ場や飲料水といった「商品」となって売られる。あふれる商品に消費意欲をかき立てられ、お金を稼ぐために長時間働く。こうして人間は、お金に振り回され、商品に振り回される——これがマルクスの根本的な洞察でした。経済成長の代償は、たいていの場合、恩恵を受ける者の目にふれることのない「外部」に押し付けられます。人間にとっての地球、あるいは一部の富裕層にとっての、劣悪な環境で働く発展途上国の人々も「外部」です。こうした外部化は、資本主義というシステムが成り立つための前提条件なのです。そうであるならば、地球も人も守るためにはシステムそのものに切り込んでいかないといけない。マルクスは、商品には「使用価値」と「価値」という二つの側面があると指摘しています。一方の「使用価値」とは、人間の役に立つこと、人間の欲求を満たす力のことです。喉の渇きを潤す水にも、空腹を満たす食料にも、使用価値があります。資本主義以外の社会では、「富」はこの使用価値を指していました。他方の「価値」は、お金で測られるものです。必要であるかどうかよりも、「売れるかどうか」が重視されています。資本主義の下では、この「価値」を増殖する、つまり、売れそうなものをどんどん生産するという考えが支配的になっていきます。現実に私たちの社会には、本当は必要ない商品が存在するように思えます。「使用価値」が低くても、売れさえすれば「価値」は増えるからです。例を挙げれば、洋服や食料品の大量生産・大量消費です。洋服も食べ物も、確かに必要です。しかし私たちの必要以上に加上に生産されているというのが、多くの人の実感ではないでしょうか。ましてや、それらの生産が地球に負荷をかけているのであれば、なおさら私たちは、今の生活を見直すべきです。身の回りの小品に対して、「本当に必要か」と問う。実際はなくても困らないものであれば、思い切ってなくしていく。そうすることで、より必要なものを、より少ない資源で生産する方向に切り替えることが「脱成長」です。 コモン(共有財産) ――脱成長は〝下り坂〟ではなく、そこに本質的な豊かさがあるといわれています。 「価値」を増殖し続ける資本主義の下で、人間は消費に駆り立てられます。そして自らも商品を生産するために、週に何十時間も働き続ける。そうした資本主義から脱することは、「短い労働時間で、そこそこの生活ができる」社会への転換でもあります。これは、人々の生活が貧しくなることを意味しません。働くプレッシャーから解放され、より自由時間を手に入れられます。生活が安定し、趣味に興じる時間や家族、友人と過ごす時間も増えます。すると健康状態も改善するでしょう。こうした生き方は、経済成長に依存しない、本質的に豊かな生き方といえるのではないでしょうか。もちろん、脱成長社会で経済はスケールはダウンします。そこで大切になるのが、商品化されていたものを「コモン=共有財産」として再生し、分かち合うことです。水や電力、住居、医療、教育といった最低限必要なものを、市民が民主的・水平的に共同管理していく社会が、私が提唱する脱成長社会の姿です。本来、土地や水は共有の富であり、コモンです。資本主義以前は、共同体の一員であればだれもが利用できた時代がありました。共有財産だからこそ、人々は自発的に手入れを行っていました。それらを囲い込み、商品化したのが資本主義です。資本主義の下で商品化された富を再びコモンとして開放し、皆で民主的に管理していく。マルクスは、こうした社会を「顧問をもとにした社会」、つまり「コミュニズム」として構想していました。私は、その意味での「脱成長コミュニズム」が大切だと考えます。いわゆるソ連型の共産主義とは全く違います。 ——あえて強い表現を使われている理由は? 「コミュニズム」という言葉には過激なイメージが付随します。私がこの言葉を「コモンの再生」の意味で使っていることは、私の著書(『人新世の「資本論」』)を読んでいただければお分かりになると思います。しかし、誤解されることを承知で私ははっきりさせておきたかったのは、資本主義に抜本的に切り込まなければいけないということです。気候変動を、今までの延長線上で解決することは、もうできないのではないか。時間をかければできるとしても、おそらくその時間は残されていないのではないか。その危機感を、ストレートに伝えたかったのです。私たちが自明と思っていた資本主義——それが問題の本質であると伝えることで、人々の心が、〝揺らぐ〟ことが必要であると考えました。この〝揺らぎ〟がないと、小手先の対策を講じるだけで結局だらだらと環境破壊や搾取を繰り返し、格差や不平等を広げてしまうからです。もちろん、解決策を講じる時間がたっぷりと残されているのであれば、脱成長という概念は必要ないかもしれない。しかし、それではもう間に合わないポイントに、私たちは立っています。最近もニューヨークで、大洪水のために多くの命が失われました。日本でも、いつ起きてもおかしくありません。そうした災害で犠牲になりやすいのは、生活基盤が弱い人たちです。危機感をもたらし格差を生みだしてきた社会のシステムに対して、声を上げていく決断が急務です。 「3.5%」から ——「3.5%」の人が立ち上がることで、社会は大きく変わると語られています。 「3.5%」の人たちが本気になれば、社会は大きく動き始める——これはハーバード大学の政治学者らによる研究ですが、私も著書で、世界各地の社会変革の事例を紹介しています。土の事例も、はじまりは少人数でした。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンべリさんの「気候のための学校ストライキ」についていえば、最初は、彼女一人だけでした。今、異常気象などが相次ぎ、多くの人は〝このままではいけない〟と、うすうす感じているはずです。しかし、どうして行動を起こしていいか分からずにいるのか、あるいは、自分自身の問題だと捉えて、エシカル消費(人や環境に配慮した消費行動)などの行動に励む人もいます。ただ、それでは足りません。気候危機は湖人のみならず、社会の問題であるからです。行動を古人で終わらせるのではなく、社会につなげていくことが大切です。問題に気付いた人がまず行動を起こし、それを声に出していく。たとえば、会社の食堂に(環境への負荷が大きい肉食をやめた)ベジタリアンのメニューがないのはおかしくないか。会社の脱炭素の方針を示すべきではないのか、等々。わたしは執筆をしますが、同じように、自分の考えを家族や同僚、地域の人と話すことは、小さくない力を持ちます。 ——創価学会もまた、個人の「人間革命」を軸とした、平和建設の民衆運動を展開しています。地球の未来に対する強い危機感を斎藤さんと共有し、今後も行動の連帯を広げてまいります。 「個人が変わること」と「システムを変えること」は、ペアであると私は思います。一方で、個人の努力だけでシステムは変わらないし、他方で、システムを変えていくうねりは個人から始まるのも事実です。個人においては、気候変動は社会全体の問題であると知ることが、まず大切であると思います。そう気が付けば、社会を動かすために行動を考えるようになる。それは「人間革命」にも通ずるものではないでしょうか。具体的には、クローゼットでも冷蔵庫の中でも、10必要であるものが、20や30も入っていないか。それを適正な「10」に戻すことが、地球の持続可能性という観点からも、豊かで充実した生活を取り戻すという意味からも大切です。今までの「当たり前」「普通」を見常なおせば、自分にできること、やらなければならないことは多く見つかります。そして、こうした個人の生き方を、社会というシステムにつなげていく制度や仕組みが必要になります。そうした存在として機能するのが、国家と個人の間にある中間団体であり、NGOやNPO、そして創価学会のような宗教団体も重要な役割を担います。既存の価値観を転換して、本当に豊かな人生とはどのような人生化を、多くの人が考え、行動していくことを願っています。気候変動は、今、地球で暮らす世代にしか解決できない問題です。私たちが何を望むか——それが人類の未来を決定するという事実を、受け止めなければなりません。 さいとう・こうへい 1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想。KarlMarx’s Ecosocialism:Capital.Nature, and the Unfinished of Political Economy(邦訳『大洪水の前に』)よって、権威ある「ドイッチャー記念賞」を日本人初、歴代最年少で受賞。その他の著書に『人新世の「資本論」』など。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.11.16