安濃津城の戦い 夫人の勇戦に城主等が決起
歴史研究家 三池 純正 慶長5(1600)年8月、伊勢安濃津城(三重県津市、津城は別称)は、毛利・吉川・長宗我部氏ら3万の西軍に包囲されていた。それを迎え撃つ、城側の兵は2千。このとき、城主・富田知信は家康に従って関東に出陣していたが、家康の許しを得て、敵の包囲網をかいくぐり、やっとの思いで城に帰還していた。しかし、城の四方はすべて包囲され、伊勢湾も敵の水軍が閉鎖。味方の援軍は全く望めな敵の大軍は城近くに押し寄せると、一斉に攻めかかってきた。承平は奮戦したが、多勢に無勢、城の構えは次々と破られ、敵の砲撃は城の櫓を打ち崩していった。「我が城を落としてなるものか!」・知信は本丸を出、敵に突っ込んでいった。しかし、知信の眼前で家臣たちが次々と討ち死に。「城は四方が破られました。もはやこれまででございます」――知信は重臣の言葉に本丸に戻って自刃することを決意した。そのときであった。半月の前立てを打った兜をつけ、漆黒の鎧に身をまとった一人の若武者が本丸の門からさっそうと出てきた。若武者は瞬く間に5,6人の敵を倒し、なおも敵に向かって突き進んでいくではないか。知信はその勇敢さに引き込まれるように、若武者に近付いていった。何とそれは知信の妻であった。富田夫人は夫が討ち死にしたと聞き、敵に一矢報いんと敵の真っ只中に一人槍をもって突き進んでいったのであった。誤報ではあったが夫を思うこの夫人の血路を開く活躍に、勇気を得た知信は夫人と共に本丸に戻り、敵に立ち向かっていった。「妻がこれほどまでに戦ったのだ。この戦必ず勝てる。いや、勝って見せる」――城内の兵も知信夫人の勇敢な戦いに湧きかえり、いつしか心が一つになっていった。城は10倍の敵を相手についに最後まで落ちることはなかった。そして、敵方は城攻めをあきらめ、ついに無血開城を受け入れた。富田知信は、この西軍をくいとめた功により、家康から2万石の加増を受け、晴れやかに再び城主をつとめることになった。この戦は関ヶ原の合戦の20日前のことであった。 【戦国史を見直す 奇跡の逆転劇】聖教新聞09・8・29