国家主義という“宗教”
[名誉会長] 国家主義とは何か。その根本には「力の崇拝」があります。不軽菩薩と対極です。 [須田] 「力の崇拝」が国家主義の根本にある――難しいですね。 [遠藤] 国家主義と聞いても、ピンとこないという人もいますが……。 [名誉会長] 権力主義」と言ってもよいと思う。 「国家があって人間がある」という転倒の思想です。忘(わす)れてならないのは、国家主義は古代からの「宗教」であるということです。 [須田] 「宗教」ですか……。 [名誉会長] これについては、トインビー博士と、じっくり語り合いました。前にも話したと思うが、博士は、こう言っておられた。 「キリスト教の後退)によって西欧に生じた空白は、三つの別の宗教によって埋められた」その三つとは、「科学的進歩への信仰」と「共産主義」、そして「ナショナリズム」すなわち国家主義であると。その「国家主義」とは、どんな宗教か。それは「人間の集団力」を信仰の対象にしている。「集団力崇拝」であり「国家崇拝」です。 ちなみに、トインビー博士は、集団的な人間の力を崇拝している点で、ナショナリズム、ファシズム(全体主義〉)、共産主義は共通していると喝破されていた。国家主義という宗教のもとでは、「人間」は、あくまで「国家」の一部にすぎない。手段にされ、道具にされる。「人間の尊厳」が「国家のエゴ」に踏みにじられてしまう宗教です。 [遠藤] それならば、今の日本にも、いっぱい例はあります。 [名誉会長] 集団力崇拝」の恐ろしさは、「信仰するに価しないことがそれほど明瞭にわからないから」だと、トインビー博士は書いている。 「そして個人が罪を犯す場合なら、おそらく躊躇なく良心の呵責をうけるはずの悪業も……一人称が単数から複数におきかえられることによって、自己中心の罪をまぬがれたような錯覚におちいるために、とかくこれを大目に見ることになる」(『一歴史家〈れきしか〉の宗教観』深瀬基寛訳、社会思想社) [須田] 一人称――「私」という個人なら、とてもできないような非道も、「我々」という複数になったら、とたんに平気になるということですね。 [遠藤] 赤信号も「みんなで渡れば、こわくない」(笑い)。恐ろしいことです。 [斉藤] あの、戸田先生をいじめた看守も、「国家主義」に毒された姿そのものですね。 「国家」という強大な力と自分を同一視している。自分まで、力があるかのように振る舞っている。 [遠藤] 虎の威を借り」「権力をカサにきた」姿です。 [名誉会長] 戦争もそうだ。通常なら、人を殺すということは「極悪」の行為です。ところが「国のため」となると、たくさん人を殺したほうが英雄になる。 [須田] 国家主義という転倒の宗教によって、人間が狂わされていく……。 [名誉会長] 戸田先生は書いておられる。 「私は少年時代から不思議に思っていることがいくつもあるが、その中でもっとも不思議に思うことは、国家と国家の間に、もっとも文化とかけ離(はな)れた行動があるということである。 もっと、くわしくいえば、あらゆる文化国の人々が、礼儀の上でも言葉つかいでも態度でも、じつによく文化的に訓練され教育されている。 このように、個人と個人の間の生活は、価値と認識において文化的であるにかかわらず、この形式は国家と国家との間における外交にかんしては、表面が文化的であっても、その奥は実力行使が繰り返されている。一旦外交が断絶されると、礼儀や習慣を捨てて修羅の巷(ちまた)となるのが国家間の状態ではなかったろうか」 戦争をはじめ、こうした流転に歯止めをかけ、人類永遠の楽園を建設する原動力こそ、真実の宗教であると戸田先生は叫(さけ)ばれたのです。 人間です、大事なのは。人間のために社会・国家があるのであって、その逆ではない。国家優先の思想は、「力の崇拝」であり、要するに「弱肉強食」になっていく。人間愛の「不軽菩薩」と対極です。それで不幸になるのは、結局、庶民なのです。見抜XCかなければいけない。目ざめなければいけない。 『法華経の智慧』第5巻