忍辱の心
忍辱の心 御義口伝には、「『忍辱』は、、寂光土なり、この忍辱の心を、『釈迦牟尼仏』といえり」(新1073・全771)との甚深の教えがある。仏の真髄の強さは、ありとあらゆる苦難を耐え忍ぶ「忍辱の心」にあるとの仰せである。―――――― ――――――忍辱の心とは、いかなる娑婆世界の嵐にさらされようと、心が負けないことだ。心が恐れぬことだ。心が揺るがぬことだ。この忍辱の心にこそ、仏の力、仏の智慧、仏の生命が脈動する。 大聖人は、御自身の法華経の行者としての御境地を次のように述べられています。「されば、日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶことなけれども、難を忍び慈悲のすぐ(勝)れたることはおそ(畏)れもいだ(抱)きぬべし」(新72・全202)法華経に対す智解の深さは、仮に、天台・伝教のほうが勝っているとしても、「忍難」と「慈悲」においては、はるかに大聖人のほうが勝っているとの仰せです。もちろん、末法の弘通にあっても、法華経に対する「智解」、すなわち道理を尽くして、理路整然たる教義の展開から語りゆくことは重要です。大聖人も、理論的解明の功績を天台・伝教にゆずられることはあっても、その必要性を否定されているわけではありません。しかし、それ以上に重要なことがある。それは、悪世末法に現実に法を弘め、最も苦しんでいる人々を救いきっていく「忍辱」と「慈悲」です。この「忍辱」と「慈悲」は、表裏一体です。民衆救済の慈悲が深いからこそ、難を忍んで法を弘めていく力も勝れているのです。「難を忍び」とは、決して一方的な受け身の姿ではありません。末法は「悪」が強い時代です。その悪を破り、人々を目覚めさせる使命を自覚した人は、誰であれ、難と戦い続ける覚悟を必要と知るからです。その根底には、末法の人々に謗法の道を歩ませてはならないという厳父の慈悲があります。その厳愛の心こそが、末法の民衆救済に直結します。 心が負けない。恐れない。揺るがない。この忍辱の心に、仏の力、智慧、生命が脈動 【仏法哲理の泉――折々の講義・指導から】大白蓮華2023年3月号