資本主義の精神を読む
資本主義の精神を読む 次に小説を二冊取り上げてみましょう。一冊目は、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』です。1719年に刊行された冒険小説で、船乗りのロビンソン・クルーソーは航海に出たものの風雨に遭って難破し、ただ一人で島に漂着します。そこで、何とか工夫をして生き残り、救助されて国に帰るまでが描かれています。少年少女文庫に入っているような小説を、なぜビジネスパーソンにすすめる本として、挙げるのか、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、読み物として、孤島でのサバイバルを「疑似体験」するだけでも、ワクワクして楽しめます。しかし、今の時代に対応する知恵を探す意味でも、『ロビンソン・クルーソー』はとても役立つと思うのです。私が大学に入ったころ、経済史の大家から講義でよく言われたのは、このロビンソン・クルーソーこそが資本主義の始まりを体現する人物だということでした。主人公は南海の孤島に漂流して、やがて従者が一人できますが、まるで経営者のように自分ですべてをコーディネートし、必要なものや道具を生み出し、島での暮らし方や時間割を決めていきます。そして、あたかも労働者のように手足を動かし、工夫をしながら働きます。ここに資本主義の精神の原型が示されるというのです。実は、経済学者のマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、このロビンソン・クルーソーについて触れています。そのことから、資本主義の精神をよく知るためには、『ロビンソン・クルーソー』を読んでみなさいということだったのです。少し脱線しますが、このあたりの事情をもうすこし述べておきます。マックス・ウェーバーは、19世紀末から20世紀初頭を生き、20世紀最大の社会科学者と呼ばれた人物です。いまでは学生でも知らない人がいますが、学生運動が激しかった1970年代には、〝社会主義の神様〟と言われたマルクスの対抗馬として、社会主義批判のウェーバーが引っ張り出され、「マルクスかウェーバーか」で議論沸騰したほどです。いうまでもなく、マルクスとウェーバーは単純な二項対立で語ることはできないのですが、ともかくもマルクスに対抗しうる知の巨人だったことは疑いなく、ある人々からは〝聖マックス〟と奉られていました。ウェーバーは「資本主義」という巨大な社会システムについて、それがどのように始まったのかという「来し方」と、それがどのように発展、あるいは衰滅して、どこへ行きつくのかという「行く末」について、洞察しようとしたのです。また、ウェーバーの生きた19世紀末から20世紀にかけては、イマン所私たちの社会に見られるいろいろな価値観の原型が形成された時代でした。産業や科学技術のみならず、たとえば宗教かんとか、一夫一婦制の家族観とか、社会道徳、倫理観、平等な人間関係のルールとか、娯楽のあり方とか、今の私たちがスタンダードとしていることの大部分が彼の頃にはほぼできあがったのです。ウェーバーはそれに社会学という学問的な側面から対峙しました。資本主義というものは絶えざるイノベーションを必要としますから、これをベースとする社会は一時たりとも静止状態にはなりません。ということは、それに合わせて人々のほうも変化していかなければならないわけで、それができない人間は容赦なく取り残されます。そのような中で、人間はなにを失ってはならないのか、あるいは何を失わざるをえないのかを、ウェーバーは社会学の地平から見つめたのです。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むと、人間の働くどうきが何によって形成され、どのようなプロセスによって高度な資本主義社会が実現したのかがわかります。考察の対象は西洋のキリスト教社会ですが、そうした個別の差異を超えた普遍的な真理をも、この本は語っています。働くという行為から魂が抜け落ちると、それは単なるスポーツと同じようなものになり、社会全体が暴走する機械のようになっていくというシナリオは、今の市場主導の資本主義を言い当てているようで、うならされるものがあります。 【逆境からの仕事学】姜 尚中Kang Sang-jung/NHK出版新書