〝死を見つめ〟善の行動を
〝死を見つめ〟善の行動を第2回ハーバード大学公演30周年1993年9月24日、池田先生は招聘を受けたアメリカ・ハーバード大学で講演を行った。91年9月に続き2回目となるこの公園は「21世紀文明と大乗仏教」と題し、「死」を巡る洞察から始まる。——「死を忘れた文明」といわれる近代は生死という根本課題から目をそらし、死を忌むべきものとして日陰者の地位に追い込んできた。世界規模の戦争が相次ぎ「メガ・デス(大量死)の世紀」となった20世紀の様相は、死の側から手痛いしっぺ返しを受けているようである。この問題提起から30年——。感染症の世界的流行が起き、〝地球沸騰化の時代〟が到来。各地で紛争が続き、核兵器使用の懸念が高まり、物価高騰・食糧難が深刻化している。私たちは、何もしなければ、より大きな破局を招くことを頭では理解している。しかし、どこまで真剣に行動できているのだろうか。根底には今も、死の厳粛さを忘れ、目を背ける〝死の忘却〟があるのではないか。その行き着くところは、あたかも永遠に生きられるかのかのように振舞う、惰性的態度であろう。そうした人生の態度は、「生」の、そして今日という日の価値をおとしめはしないか。先生は講演で、死に割り振られた「悪・無・暗」等の負のイメージの払拭を訴える。死は「次の生への充電期間」であり、「生と同じく恵み」である。ゆえに仏法では「生も歓喜、死も歓喜」と説く、と。同時に、今世での善業も悪業も、全ては生命に厳然と刻まれ、次の生へと持ち越される。それが分かれば、だれが悪業を積み重ねる愚かな生き方を選ぶだろうか。仏法の生命感は、生死の流転を見つめつつ、「強く、善く、賢く」生きることを促している。そこにこそ、「生」の本当の輝きがあり、人類の宿命を転じて「生命の世紀」を実現しゆく道があろう。先生は講演の結びに、小さな自分(小我)を超え、人類の苦をも我が苦となす「大河」の生き方を強調。それは、「常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げる」生き方であると。そして、この大河が脈動する中に、「生も歓喜、死も歓喜」の生死観が確立されゆくと結論している。世界の平和と全人類の幸福へ——私たちは、その使命を担い立ち、縁する人々の幸せを祈り、励まそう。この尊き菩薩の使命に生き抜く時、生死の苦しみも全て、我が人生を宝になると信じて。 【社説】聖教2023.9.16