ジョン万次郎
中浜万次郎は、文政十年(一八二七年)の元日、現在の土佐清水市中浜に、半農半漁の家の次男として生まれた。少年期に父が他界し、母を助け、体の弱い兄に代わって懸命に働いた。天保十二年(一八四一年)一月、十四歳になった彼は、漁を手伝って、暴風雨に遭い、四人の仲間と共に漂流したのである。数日後、たどり着いたのは、伊豆諸島にある無人島の鳥島であった。渡り鳥を捕まえて食べ、飲み水を探し回らねばならなかった。島での生活は、百四十三日も続いた。ようやくアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出された彼らは、ハワイのオアフ島に送り届けられる。日本は鎖国をしており、日本に送ることはできなかったのである。仲間四人は、ハワイに留まることになったが、万次郎は、そのまま捕鯨船に残り、航海を続けることを希望した。彼は、家が貧しかったために、寺子屋に通って、読み書きを学ぶこともできなかった。しかし、聡明であった。世界地図の見方や英語などを船員たちから学び、瞬く間に吸収していった。強き向上、向学の一念があれば、人生のいかなる逆境も、最高の学びの場になる。 【新・人間革命「力走」57】聖教新聞2016.5.31 万次郎は、皆から「ジョン・マン」と呼ばれた。それは、捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の船名にちなんだ愛称であった。彼はよく働き、捕鯨船の乗組員たちから愛されていた。なかでも、船長ホイットフィールドは、高額旺盛で聡明な彼を、息子のようにいとおしく思い、アメリカで教育を受けさせたいと考える。万次郎は、ホイットフィールド船長と共にアメリカ本土へ渡り、マサチューセッツ州のフェアヘイブンで学校に入る。英語、数学、測量、航海術等を学んだ。農業などを手伝いながら、猛勉強に励んだ。船長の恩に報いようと必死だった。成績は首席であった。卒業後は捕鯨船で働き、航海士となるが、やがて帰国を決意する。日本にいる母のことも、心配で仕方なかったにちがいない。また、次第に険悪化していく日米関係を危惧し、開港を訴えなければならないとの強い思いがあったとする見方もある。万次郎は、帰国資金を作るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへと向かう。遭難から九年、既に二十三歳になっていた。金鉱で採掘に取り組み、資金を得た彼は、サンフランシスコから商船でハワイに渡り、ホノルルにとどまった仲間と再会し、日本へ戻る計画を練った。いまだ鎖国は続いている。結果的にその禁を破ったのだから、死罪も覚悟しなければならない。彼は、琉球を目指すことにした。琉球は薩摩藩の支配下にあるが、独立した王国であったからだ。上陸用のボートを購入し、上海に行く船に載せてもらった。琉球の沖合で、ボートに乗り換えた。彼が、琉球、鹿児島、長崎、土佐で取り調べを受け、故郷に帰ったのは、嘉永五年(一八五二年)、二十五歳のことであった。万次郎は、常に希望を捨てなかった。行く先々で、その時に自分ができることにベストを尽くした。だから活路が開かれたのだ。「希望は、嵐の夜の中に暁の光を差し入れるのだ!」とは、詩人ゲーテの叫びだ。 【新・人間革命「力走」58】聖教新聞2016.6.1 時代の激流は、万次郎を歴史の表舞台に押し上げていった。時代が彼の力を必要としていたのだ。土佐で万次郎は士分を与えられ、藩校「教授(こうじゅ)館」で教えることになかった。岩崎弥太郎や後藤象二郎も、彼に影響を受けている。さらに、江戸に呼ばれ、軍艦教授所の教授を務める一方、翻訳なども行っている。だが、そんな万次郎に、嫉妬する者も後を絶たなかった。彼が、自分たちにはない優れた能力、技量をもっていることは、皆、わかっていた。それでも、武士ではない、半農半漁の貧しい家の子が重用されていったことへの、感情的な反発があったのであろう。自分に力もなく、立身出世や保身に執着する者ほど、胸中で妬みの炎を燃やす。大業を成そうとする英傑は、嫉妬の礫を覚悟しなければならない。人間は、ひとたび嫉妬に心が冒されると、憎悪が燃え上がり、全体の目的や理想を成就することを忘れ、その人物を攻撃、排斥することが目的となってしまう。そして、さまざまな理由を探し、奸策を用いて、追い落としに躍起になる。国に限らず、いかなる組織、団体にあっても、前進、発展を阻むものは、人間の心に巣くう、この嫉妬の心である。万次郎は、スパイ疑惑をかけられたりもしたが、日米和親条約の締結にも尽力した。日米修好通商条約の批准書交換に際しては、遣米使節団の一員となり、咸臨丸で渡米し、通訳などとして活躍する。明治に入ると、政府から開成学校(東京大学の前身)の英語教授に任命される。 【新・人間革命「力走」59】聖教新聞2016.6.2