日蓮の思想
日蓮の思想 欧米の多くの研究者が日蓮について国家主義者・国粋主義者だと評しているのに反して、フランスの社会学者で哲学者のラファエル・リオジエ氏(Raphael Liogier 1967~)は、相手の性格、人柄、能力などに応じて人間性豊かな文章で語りかける日蓮の手紙(消息文)に関心を深めている。わが国でも、日蓮というと国家主義や、国粋主義を連想する人が多い。それは、明治時代の国家主義へと突き進む時流の中で形成されていった。田村芳朗(一九二一~一九八九)は、その著『法華経——真理・生命・実践』(中公新書)において、日本近代、すなわち明治以降の国家主義、ないし日本主義の高まりにともない、いかにして日蓮主義者たちによって、『法華経』や、日蓮の思想が国家主義や、国粋主義と結びつけられていったかを詳述している。日蓮を国家主義的に信奉し、日蓮主義運動を展開した人として田中智学(一八六一~一九三九)を挙げ、その目指すところは国体(天皇の神聖性とその君臨の持続性)の宣揚が第一義であったという。それは、必然的に日本という国家を絶対化し、国粋主義へと発展していった。田中智学の直接の影響ではないが、右翼革命と日蓮主義を結びつけたのが、二・二六事件の黒幕とされる北一輝(一八八三~一九三七)であった。彼は、日蓮と『法華経』を熱烈に信奉し、日蓮の著作と『法華経』の言葉を引用して自説を展開した。『法華経』は、あらゆる人が平等で、尊い存在であり、誰でも成仏できることを説く経典であって、それを説き示す使命を帯びて出現するとされたのが地涌の菩薩であった。ところがその地涌の菩薩について、北一輝は、大地が震裂したことを「来りつつある世界革命」のことだと曲解し、地涌の菩薩を「地下層に埋まるゝ救主の群れ」であり、「草沢の英雄」「下層階級の義傑偉人」のことだと意義づけした。このように右翼革命、武力革命、武力侵略を正当化するために『法華経』や日蓮の言葉を強引に歪曲されて用いられた。こうした動きに対して高山樗牛(一八七一~一九〇二)は、『日蓮上人と日本国』を著わし、日蓮を国家主義者と見なすことの誤りを論じた。高山樗牛は大学時代の学友であった姉崎正治(一八七三~一九四九)も、当初は日蓮について批判的で、日蓮を国家主義的で排他的だと評していたが、樗牛の熱心な説得に心を打たれて誤解を改め、日蓮に好意的になった。一九一三年にハーバード大学に招かれて日本文化についての講座を担当し、英文の論文“Nichiren, the Buddhist prophet”(仏教の予言者日蓮)を執筆した。帰国後に日本語で加筆して名著『法華経の行者日蓮』(一九一六年)を出版した。田村芳朗は、高山樗牛について次のようにに綴っている。かれは当時、国家主義が高まっていくにつれ、日蓮宗の僧侶が日蓮を国家主義者に祀り上げていく姿を見て、憤りを感じた。右の論文(筆者注=『日蓮上人と日本国』)に「嗚呼国家的宗教と云ふが如き名目の下に、自家宗門の昌栄を誇らむとする僧侶は禍ひなる哉。斯かる俗悪なる僧侶の口よりその国家主義を讃美されつゝある日蓮は気の毒なる哉」と嘆いている。(『法華経——真理・生命・実践』、一七二頁)高山樗牛の言を待つまでもなく、日蓮だけでなく、『法華経』の言葉までも曲解されていたことは悲しむべきことであり、日蓮の人間としての実像を明らかにすることが望まれる。それは、教義を理論的に展開した著作よりも、具体的な個々の人々の喜び、悲しみ、怒り、不安に寄り添って書かれた日蓮の手紙に最も表れているのではないかと思う。オリジェ氏が、日蓮の手紙に関心を深めているのは、正鵠を射ているといえよう。日蓮の手紙は、真跡、写本等が三百四十通ほど残っている。これは、他の教祖の追従を許さない圧倒的多さである。法然(一一三二~一二一二)の直筆の手紙はないと言われているし、道元(一二〇〇~一二五三)は、ほとんど手紙を書かなかったようで残っていない。本書で取り上げる檀越(信徒)の四家だけを見ても、富木常忍関係が四十二通、四条金吾関係が三十九通、池上兄弟関係が十九通、南条時光関係が五十二通を数える。日蓮の手紙の特徴は、相手に応じて文体や、文章、表現をがらりと変えているということだ。富木常忍のように学識豊かな人には漢文体の著作や手紙を与えているが、他の檀越や女性に対する手紙はいずれも和文体で仮名書きである。十代の若い時の南条時光には、漢字が少なく、ほとんど平仮名で書かれている。相手が詠めそうにないかなと思った漢字には、自らルビを振っている。文字が読めない人もいたのであろう。弟子の名前を挙げて、その人に読んでもらうように指示した手紙もある。日蓮は、檀越たちのそれぞれの状況に応じて手紙を書いた。従って、日蓮の手紙には、人生相談あり、生活指導あり、激励ありと内容が幅広く、日蓮は、時に応じ、機に応じて弁護士、教育者、心理学者、劇作家、戦略家、詩人、ネゴシエーター(交渉人)であるかのような多彩な文章を綴っている。それも、法門を型にはまって説明するのではなく、相手に応じて仏典だけにとどまらず、インド、中国、日本の故事や説話、歴史的教訓などを駆使して何とか分かってもらおうとする配慮に満ちている。子を亡くした母や、夫に先立たれた妻の悲しみに寄り添い、少年には父が子に噛んで含めるように語って聞かせるように文章を綴っている。信仰と、職場や親子などの人間関係との葛藤に悩む人には、きめ細かい現実的で極めて具体的な教示を与えていて、そこには精神論も、抽象的な答え方もまったく見られない。一人の人を激励するにも、相手の身になって、その人の周辺の人間関係をおさえて、その人間関係の中でどうしたらその人が生きるか、やりやすくなるか——という視点からなされていることに気づく。このような日蓮の手紙について、梅原猛氏(一九二五~二〇一九)は、親鸞の手紙は、だれにあてても同じようなことを書いてます。このくらい同じだとこれもみごとなもので、私は感心しるんですけれどもね(笑)。ところが日蓮の手紙は、一人一人違うでしょう。(紀野一義・梅原猛著『永遠のいのち(日蓮)』、一七二頁)と語っていた。日蓮の手紙を読んでいると、『法華経』安楽行品で釈尊滅後の菩薩の実践のあり方として説かれていた次の言葉と重なってくる。熱心な衆生が集まっていた時、この法座に坐って、多くの種々の話を簡潔にまとめてしてやるとよい。男性出家者にも、また、男性在家信者や女性在家信者、王や、賢者は、常に嫌な顔をしないで種々の意味をもつ感動的な話を語るべきである。質問された時も、質問した人が悟りを得ることができるように、適切な意味のすべてを説き示すべきである。(植木訳『サンスクリット版語訳 法華経 現代語訳』二三六頁)賢者は怠慢であることを避け、倦怠感を生じることなく、不愉快を捨て去って、聴衆のために慈悲の力を起こすべきである。賢者は、多くの譬喩によって、日夜に最高の法を説いて、聴衆を歓喜させ、満足させるべきであり。 (同)手紙は、佐渡流罪在中、身延隠棲中に特に多くなっている。佐渡からは、紙が貴重で少なく、それぞれに手紙を出すことができないので、代表に送ってみんなで読むように指示している。『佐渡御書』の追伸には、『外典書の貞観政要、全ての外典の物語、八宗の相伝等、此れ等がなくしては、消息もかかれ候はぬに、かまへてかまへて給候べし」記していて、消息(手紙)を書くのに、仏教以外の資料として、『貞観政要』や、説話などの書まで目を通していたことがうかがわれる。それだけ、日蓮は手紙を重視していたということであろう。 【日蓮の手紙「はじめに」より】植木雅俊著/角川文庫