失業から生活破綻へ
歴史学者 藤野 豊 福岡県田川市にある私立図書館の郷土資料室は私にとっての資料宝庫である。何度も通っているが、行くたびに新しい資料を発見する。筑豊の炭鉱史の研究者として知られる木下十四雄氏がかつて館長を務めたこともあり、筑豊を中心に炭鉱の歴史に関する資料も多く保存されている。そこからは、石炭鉱業合理化臨時措置法下、閉山させられた炭鉱の人々の苦悩と、閉山が地域全体に及ぼした打撃を読み取ることができる。石炭鉱業合理化臨時措置法案が国会で審議されていた1955年5月23日、田川市議会では「失業者は激増の一途を辿っているとき国は石炭企業の合理化と云ふ美名に隠れ石炭鉱業合理化臨時措置法の制定を策定している」「この法案は企業家擁護の立法であって勤労大衆には悪法であると云っても過言ではない」「この法案が国会を通過すれば失業者の激増に更に拍車をかける結果となることは必至である」という理由で、全員一致で法案成立反対を決議している(「昭和三十年」田川市議会(継続会)々議録)。炭鉱の閉山、失業者の激増は、生活保護費の増加、鉱産税の減収などで市にとっても財政上、大きな打撃になる。当時の市長は、炭鉱勤務の経験もある坂田九十百であった。市議会として、党派を超えて法案反対の決議に至ったことは当然でもあった。そして、法律成立後、市議会の不安は現実のものとなった。大きな問題となったのは、石炭鉱業整備事業団事業団に買い上げられて閉山した炭鉱の社宅(いわゆる炭住)の扱いである。買い上げられて閉山させられた以上、労働者と家族は炭住から撤去しなくてはならない。すなわち、閉山は炭労労働者から仕事と住居の両方を奪うことになる。整備事業団は、閉山と決まった炭鉱の炭住への送電を打ち切る。58年3月22日、市議会で、このことが問題となった。「昨年九月以来電気を切られた室井鉱業所の者は六十人からの児童を抱えておりまして、毎日ローソクの生活をしている」「病んでいる自分の子供が伝統がないために何時死んだかわからない、朝起きたら冷たくなっている自分の子供に取りすがって泣きくずれた」と議員から電気も切られた炭住の生活の惨状が訴えられた。これに対し、坂田市長は市が事業団から住宅を買い上げ、利用者に分けることで対応したいと答弁した(『昭和三十三年第一回田川市議会定例会会議録』)。しかし、限られた市の財政では今後の失業者の激増には対応できない。もはや一自治体で対処できる次元の問題ではなかった。 【炭鉱のまちを歩く[12]】聖教新聞2017.7.20