日眼女
第28回 日眼女日眼女は四条金吾の妻であり、夫と共に純真に信心に励んだ女性門下の代表です。金吾が、さまざまな苦難に遭いながらも、日蓮大聖人をお守りし、鎌倉門下の中心者として信心を貫くことができた背景には、日眼女の支えがあったことが、大聖人のお手紙からうかがい知ることができます。日眼女は、大聖人のお手紙から、厄年だった年が分かっているので、寛元元年(1243年)の生まれだったと考えられます。「日眼女」の名前が確認できるのは、弘安2年(1279年)に認められた「日眼女造笠釈迦仏供養事」です(弘安3年の御執筆という説もあります)。そのころには、金吾の妻は大聖人から「日眼女」と呼ばれていたと思われます。 「月(つき)満(まろ)御前(ごぜん)」と命名文永7年(1270年)、日眼女は、待ち望んでいた子どもを身ごもったようです。翌8年5月には、大聖人から日眼女に激励の御返事が送られています。このお手紙は、現在、金吾夫妻に宛てたとされる書状の中で最も古いものです。大聖人は「あなた方夫婦は、共に法華経を受持する者です。法華経が流布していく種を継ぐ、玉のような子どもが生まれるでしょう。誠にめでたいことです」(1109㌻、通解)とお祝いの言葉を贈られ、「日蓮があなた方に妙法の種を授けて、お生まれになるので、わが子のように思われます」(同㌻、趣意)と、ことのほか喜ばれています。仏法の眼から見れば、すべての子どもが、偉大な使命を持ってこの世に生まれると捉えます。法華弘通に励む新ご夫妻の子どもも、どれほど使命深き存在であることか。大聖人は、かけがえのない愛弟子の子どもの誕生に際し、健やかな成長をわが子のように願われたに違いありません。同年5月8日、金吾宛てに送られた「月満御前御書」によれば、日眼女は無事女児を出産し、大聖人は、早速、「月満御前」徒命名されました(1110㌻、参照)。お手紙では、「願いが叶っていく様子は、潮が満ちて来るようであり、春の野に花が咲くようです」「余りにおめでたいことなので、今日は詳しく申し上げませんが、また重ねて後に申しましょう」(同㌻、趣意)と仰せです。金吾ご夫妻が、わが子の誕生を長い間、祈り続けてきたことを、感じ取ることができます。日眼女は、大聖人が言葉を尽くして励まされたお手紙を繰り返し読み、感動で胸がいっぱいになったことでしょう。 竜の口の法難新たな命を授かり、喜びに包まれていた金吾夫妻を揺るがす一大事が起きました。文永8年9月12日、平左衛門尉頼綱が武装した兵士を率いて大聖人を捕縛しました。しかも、その深夜、大聖人は、密かに拘留されていた北条宣時邸から連れ出され、鎌倉近郊でこっそり処刑されようとしました。金吾邸の近くを通った時、大聖人は使いの者を金吾に送られます。急の知らせに、金吾は大聖人のもとに向かって裸足で駆けだしていきました。金吾は、大聖人の馬の口に取り付き、大聖人が処刑されたなら、自分も一緒に死ぬという覚悟でお供をしたのです。日頃の大聖人への圧迫や、不穏な状況の鎌倉の中にあって、かねてから覚悟のあった日眼女は、大聖人と夫の身の上を心から案じて題目を唱え、眠れぬ一夜を過ごしたに違いありません。大聖人一行が竜の口に到着し、処刑が行われようとした、まさにその時でした。江の島のほうから「光り者」が現れたため、刑の執行はできなくなりました(竜の口の法難)。金吾は依智(神奈川県厚木市内)まで大聖人にお供した後、帰宅しました。竜の口での出来事を夫から聞いた日眼女は、究極の大難にあっても、悠然と乗り越えた師匠の偉大なお姿を命に刻んだことでしょう。 夫を佐渡に送り出す大聖人が佐渡に流罪されると、多くの門下が弾圧にあって退転しました。しかし、金吾夫妻は、御供養の品々を贈ったり、金吾自身が佐渡を訪れたりして、大聖人をお守りしました。文永9年4月に日眼女に送られた「同生同名御書」では、夫を鎌倉から佐渡へはるばる送り出した日眼女を最大に称賛されています。「あなた方は、鎌倉にいながら、人目をはばからず、命を惜しまず、法華経の信心をされていることは、ただごととも思われません」(1,115㌻、趣意)「このような乱れた世に、この殿(金吾)を佐渡の地まで遣わされた、あなたの真心は大地より厚いのです。必ず地神も知っていることでしょう。また、その真心は虚空よりも高いのです。きっと・梵天帝釈も知られていることでしょう」(同㌻、通解)当時、鎌倉では、良観らの諸宗の悪僧に唆された幕府要人らが、大聖人の門下を激しく迫害していました。二月騒動(北条氏一族の内乱)による混乱もあったと考えられます。そんな逆境にもかかわらず、金吾夫妻は法華経の信仰に一途に励み、日眼女は夫を佐渡に送りだし、留守を守ったのです。陰の労苦をいとわず、誰が見ていなくても広宣流布を支え抜く福徳は計り知れないことを、大聖人は教えられているのです。 鳥の二つの翼のようにさらに、佐渡に流罪された時期の金吾宛ての手紙には、金吾夫妻が力を合わせて信仰に生き抜くべきであることを教えられています。大聖人は、「太陽と月」「二つの眼」「鳥の二つの翼」のように、夫婦でぴたりと呼吸を合わせて、信心に励むように御指導されています。「夫婦の固い信心の絆があれば、死後に暗い道などあるでしょうか。霊山浄土の仏たちの顔を拝見できることは疑いありません。久遠の仏の住む世界に瞬時に飛んでいけるのです」(1118㌻、趣意)と。文永11年(1274年)、大聖人は佐渡流罪を赦免されて身延に入り、民衆救済の大闘争を門下に呼び掛けられます。金吾は師の戦いに呼応して主君を折伏しました。そのため、金吾は主君の不興をかって遠ざけられてしまい、同僚たちからもさまざまな圧迫を受けます。っそれでも金吾夫妻は、共に助け合って信心に励めば、身延の大聖人を支えました。日眼女には、夫婦がいかなる苦難にあっても、二人が力を合わせて信心に励めば、必ず諸天に守られ、悠々たる境涯を開いていくことができるとの大聖人の指針が、いつも胸に響いて離れなかったことでしょう。 厄年の不安文永12年の1月に認められた「四条金吾殿女房御返事」によると、日眼女はこの年に33歳の厄年に当たることを大聖人に報告し、御供養をしています。また「日眼女造立釈迦仏供養事」でも、37歳の厄年に当たって、御供養を届けています、37歳の厄年の折には、日眼女は大聖人から「御守」御本尊を授与されています(1187㌻参照)。厄年の考え方は、古代中国の思想である陰陽道に基づいたもので、中国医学の流人に伴って日本にもたらされたといわれています。当時、人々は厄年を忌避し、災厄を逃れるために儀礼や祈祷を依頼する人もいました。日眼女もそうした当時の慣習に従っていたと思われます。もちろん、仏法には厄年のような考え方はありません。しかし、大聖人は、御供養への返礼として記された「四条金吾殿女房御返事」で、33歳という女性にとって最も厄年とされていた年齢を迎え、不安を抱いていたであろう日眼女を、慈愛を込めて励まされています。「強盛な信心を貫けば、33の厄は転じて33の福となるでしょう」(1135㌻、趣意)と。これは、法華経の正しい信仰の眼から、厄年の考え方を捉え直し、生かして用いることで、日眼女を励まされたものと拝されます。 日本第一の女人大聖人が、「四条金吾殿女房御返事」を認められたところ、夫の金吾は、主君から遠ざけられ、同僚たちからの激しい圧迫を受けていました。金吾の命を付け狙う者もいて、大聖人は金吾に対して、命を守る生活上の注意を繰り返し御指導されています。別なお手紙を拝すると、昼の宴席も油断できないものとされ、金吾が安らげる人と気がなかったことがうかがえます(1133㌻参照)。日眼女のまわりにも、法華経の信仰に対する理解が不十分で、日眼女に距離を置くようになった者がいたのかもしれません。八方ふさがりの状況に、日眼女はどれほどつらく、悔しい思いを重ねていたことでしょう。そんな彼女に対して、「四条金吾殿女房御返事」では「全ての人が憎むならば憎めばよい。釈迦仏・多宝仏・宇宙のあらゆる仏をはじめ、梵天・帝釈・日天・月天らにさえ、大切に思っていただけるならば、なにもつらいことはないのです」(1135㌻、通解)と仰せです。正法に無知な多くの人々にどんなに憎まれようとも、毅然たる信心を貫いて、諸仏・諸天に大切な人だと思われるならば、むしろ大いなる喜びではないか、法華経の讃嘆を受けたならん何の苦しいことがあろうか、と渾身の激励をされているのです。大聖人は同抄で、「妙法を持つ女性は、他の一切の女性に優れているだけでなく、一切の男性にも超えている」(1,134㌻、通解)と強く訴えられています。また、けなげに信心に励み、夫を支え続ける日眼女を「日本第一の女人なり」(1135㌻)最大にたたえられています。日眼女にとって、大聖人の御言葉がどれほど心の励みになったことでしょう。後に金吾は、病気になった主君の看病・治療を通して、以前にもまして主君から信頼を取り戻し、所領も増えました。建治4年(1278年)に御親筆されたお手紙には、金吾が主君の出仕のお供をした折、鎌倉の子どもたちから〝一行の中で四条金吾そこ第一である〟とほめたたえられたことが記されています。(1175㌻参照)。長い間の苦しみを乗り越えた日眼女にとっても、「日本第一の女人なり」と大聖人から贈られたお言葉のような小さんが、身の周りから寄せられたことでしょう。 【日蓮門下の人間】群像―師弟の絆、広布の旅路】大白蓮華2020年5月号