食べることと、話すこと
第6回食べることと、話すこと歯科医師 永目 誠吾さん咀しゃくを助け 会話を楽しむ「歯」は豊かな人生の礎口腔衛星の分野で今、新型コロナウイルス感染症の重症化と歯周病との関連性が指摘されています。ヨーロッパ歯周病学会は本年2月、新型コロナウイルスに感染した568人を対象にした調査結果を発表しました。この報告によれば、歯周病にかかっている人は、そうでない人に比べて、感染症による死亡リスクが8.81倍、集中治療使途を要するケースが3.54倍、人工呼吸器などの補助を必要とするケースが4.57倍に及ぶという驚きの内容でした。以前から、歯周病がインフルエンザなどのウイルス感染症のリスクを高めることは知られていました。歯周病菌が出す酵素が歯肉などの粘膜を傷つけ、ウイルスを侵入しやすくしてしまうのです。 歯周病は万病の元歯周病は、最近の感染によって歯を支える骨や歯肉などが破壊されていく疾患です。本来、ヒトと共生関係にある口腔内の常在菌は、身体に悪影響を及ぼすことはありません。しかし、あまりにも数が多くなると歯周病となり、その歯周病が、循環器疾患などの全身疾患につながってしまうことが分かっています。古代ギリシャの医聖ヒポクラテスも、歯周病と全身疾患の関連性を指摘しています。歯周病は、万病の元といっても過言ではありません。誤嚥性肺炎も、その一つです。飲食物や唾液は飲み込むと、通常は食道を通って胃に運ばれますが、誤って気道に流れてしまうと、歯周病菌をはじめとする細菌が肺の中で繁殖し、炎症を起こしてしまうのです。特に免疫力が弱まった高齢者は、重症化しやすいことが分かっています。また歯周病が、アルツハイマー病や糖尿病、関節リュウマチなどにも関係しているとの調査もあります。歯周病は「サイレントキラー」との別名を持ちますが、その進行を放置してしまえば、ある日突然、命に関わる重大な疾患を引き起こす恐れがあるのです。何より、歯周病は、歯を失う一番の要因です。年齢の「齢」という字には「歯」が用いられているように、古来、人々は歯を命の象徴として大切にしてきました。それは、生きていく上で大切なものだからです。「歯の一本ぐらいなくても」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、奥歯1本の喪失で、噛む効率が40%も損なわれるというデータもあります。また、歯には単に食べ物を咀嚼するためだけではなく、会話を楽しむなど、豊かな人生を送るための基礎となります。だからこそ、歯の喪失は社会生活に支障をきたしてしまいかねないのです。一方、歯周病は、正しくケアをすれば予防できる疾患です。そのためにも、定期的に歯科に通うことが大切ですが、多くの人にとっては、歯が痛くならない限り、なかなか足を運ばないというのが現実ではないでしょうか。あるアンケートでは、歯にトラブルがなくても定期的に歯科に通院する割合は、アメリカが76%であったのに対し、日本はその半分にとどまっています。その結果、日本では、55歳から64歳で歯周病の有病者率が82.5%。そして、60歳代で半分の歯を失い、80年代では約半数の人がすべての歯を失っているのが現実です。そもそも、自然界の動物には、虫歯などの鹿疾患は、基本的にはありません。どうして、人間だけがこうした疾患に苦しむのでしょうか。それは、人間が自然界の者をそのまま食べるのではなく、火を使った加工食品を摂取するようになったからだと考えられています。日本においては、縄文時代から弥生時代にかけて虫歯が見られるようになり、江戸時代には欧州から砂糖が輸入されるようになったことで、虫歯になる人が増えたといわれています。では、歯科疾患を防ぐために、何を心掛ければよいのでしょうか。そもそも、現代に生きる私たちの食生活を、自然界のものだけに切り替えることは難しいでしょう。しかし、「間食を控える」「糖分を取り過ぎない」など、食習慣を見直すことはできます。また、よく噛んで食べることも大切です。咀嚼するほど唾液が分泌されますが、唾液には抗菌作用があるが知られています。噛むことで食べ物が細かくなるので消化にも良いですし、うま味も感じやすくなります。満腹中枢も刺激されるので、食べ過ぎを防ぐこともできます。その上で、最も重要なのは、歯磨きです。歯周病菌の生息場所は、歯と歯茎の間にあるポケットですので、そこを丁寧に磨き歯垢などを除去することが大切です。しかし、それだけでは完全には除去しきれませんので、やはり定期的に歯科に通っていただくことをお勧めします。◆◇◆実は、日本において、歯磨きの文かは、仏教に伝来とともに中国から伝わりました。それは「楊枝」です。これは現在使われている「つまようじ」ではなく、細い木の枝を噛んで繊維状にし、それで歯を磨くという、いわば歯ブラシのようなものです。これも仏教と関わりがあり、釈尊は、弟子たちに〝歯磨き〟を勧めるとともに、弟子たちが喉を突かないよう、楊枝の長さまで定めたと伝えられています。実際、仏典(四分律)には、口の中をきれいにする効果が記されています。➀口臭がなくなる。②味覚が良くなる③口の中の熱や痰を除く。④食欲が出る——等です。歯や口腔を清潔に保つことが、健康を守る上で重要だと分かっていたのでしょう。また大智度論には、仏の勝れた肉体的特徴として「歯がそろっている(歯斉相)」などが挙げられ、経典にも「脣舌[じゅんぜつ]は赤好[しゃくこう]にして丹華の若[ごと]く」(法華経14㌻)、「口の中より常に青蓮華の香を出しだ」(同601㌻)など、口に関係する記述が見られます。日蓮大聖人も、容色の一つとして「白歯」(御書395㌻)を挙げられていますが、こうした白い歯や、赤い舌、口臭に煩わされないことなどは、現代においても憧れではないでしょうか。 進化から見る役割そもそも生物にとって、口腔には、どのような役割があるのでしょうか。ここで生物の進化から、口腔の機能について考えたいと思います。もともと生物は、細胞の分裂を繰り返す中で多細胞となり、大型化していきました。そして大型化した身体を維持するためには、栄養補給が不可欠です。そこで細胞の一部が陥没して「口」ができ、ものを食べるようになりました。この食べるという行為は、常に危険が伴います。なぜなら自然界には、自らの身を守るために毒を持ったものも存在しており、それを取り込んでしまえば死んでしまうリスクもあるからです。そこで生物は、味覚器を発達させました。それが「舌」です。この舌は、動物が海から陸上に上がって生活するようになってから、さらなる進化を遂げたと考えられます。海の中では、泳ぎながら口を開ければ、水の流れとともに食べ物を口に入れることができましたが、陸上では、そうはいきません。当時は、すでにトンボなどの昆虫が陸上で暮らしており、そうした昆虫を捕らえるために従進化したと考えられているのです。これは、舌で獲物を捕まえるカエルやカメレオンなどを思い浮かべていただければ分かりやすいでしょう。そもそも舌は、発生学的には手や足地伊那路特徴をもっており、「第三の手」とも呼ばれます。そして、「歯」は、さまざまな食べ物をかみ砕くために発達しました。総じて考えれば、口も舌も歯も、生物が獲物を食べていくため、生きていくために獲得してきたものなのです。 生物で異なる味覚生物の下には、こうした進化の過程が詰まっています。人間が感じる味覚は、甘味、酸味、塩味、うま味ですが、この5種類とも水溶性で、逆に水に溶けないものの味は感じません。これは、人間の祖先が海で暮らしていたことが由来と考えられています。ちなみに、辛い物が好きという方もいらっしゃると思いますが、から見は水に溶けないため、味としてではなく、痛みとして感じています。また、この味覚は、静物によっても感じ方が異なることが知られており、ネコは甘味を感じません。それはササを好んで食べるパンダや、ユーカリの葉を食べるコアラなど、それぞれの置かれてきた環境や食習慣に合わせて、舌が進化してきたことを表しています。その上で、人間の舌は、他の生物にはない独特の進化を遂げました。それは、手のように器用な舌を使って口の中に多様な空間を作り、言葉を生みだしたことです。先ほど、舌は獲物を取るために発達したと述べましたが、人間はそうした使い方はなく、会話によって協力し合うことで、獲物をとることを選択したのです。こう考えると、会話とは、生きていくために必要不可欠なものだということが分かります。◆◇◆言葉を操る人間の口は、心とも密接に関係しています。例えば、心の持ち方で、一部の方に味覚障害があらわれることが分かっています。これは心が口に与える影響です。その逆もあります。最近はコロナ化で会話の機会が減少しており、心の健康への影響が指摘されています。その原因として、会えない孤独感などが想定されますが、そもそも口を動かさないことが心に与える影響もあるのです。能く野球の試合で、ガムを噛みながらプレーしている選手を見ますが、それは気持ちが落ち着くからです。実は、口をリズムカルに動かすことで、口内からは唾液が分泌されますが、脳では線形の興奮を静めてくれるセロトニンという物質が分泌されると考えられています。私たちが響唱える題目が精神の安定につながることは、口の動きからだけでも言えると思います。 人間の口は言葉を生みその力で協力してきた孤立進む今こそ心結ぶ対話を 六根の中の「舌」さて、仏法では外界を認識する感覚を、眼・鼻・舌・身・意の六つとしており、「六根」と呼ばれます。そして、この六つが清らかになっていくことで得られるものを、功徳と捉えています。その中で、舌の功徳について、法華経では次の2点が挙げられます。一つは、〝何を食べても、おいしく感じる〟という味覚に関することです。歯磨きなどの心掛けで口腔環境が良くなれば、一つ一つの味も鮮明に感じられますし、口は心とも関係するからこそ、心が清らかになれば、さらにおいしく感じるということは科学的にも考えられます。もう一つは、声についてで「この舌で、大衆の中で演説するならば、深く妙なる声を出して、聴く人の心によく届き、皆を歓喜させ、気持ちよく、楽しませるであろう」(法華経543㌻、通解)と記されています。大聖人も「声仏事」(御書708㌻)と仰せの通り、仏法では声を大切にします。その声とは、人々を思う慈愛の励ましであり、民衆を不幸に陥れる思想をたたき切る叫びであり、人類を結ぶ信念の対話ではないでしょうか。これは力を合わせて生きていくために舌があるという捉え方であり、まさに人間が進化の中で手に入れた口腔機能の本質を突くものでしょう。◆◇◆現在、猛威を振るう新型コロナウイルスは、口から出る飛沫が主な感染経路となっており、会話を避けなければならない状況にあります。しかし、その結果、世界は分断し、社会の中で孤立化が進みました。人間は今、声の力を使って、どう人々をつないでいけるかの岐路に立たされていると思わずにはいられません。そうした中にあって、創価学会員は、感染対策に留意しながら、オンラインなども使って励ましを広げ、声の力で地道に人々を結んできました。この学会の言論闘争こそ、人間が人間であるために必要なものであると思います。私自身、その誉れの一員です。声の力を磨きに磨き、地域の同志と共に、身近なところから励ましを広げていきたいと決意しています。 ながめ・せいご 1949年生まれ。歯学博士。大阪歯科大学四学部卒業。同大学で口腔衛生額を教える傍ら、虫歯菌を防ぐ化学物質の研究などに従事。その成果が認められ、2013~15年にハーバード大学で学会発表。梅花女子大学看護保健学部口腔保健学科教授などを歴任。日本口腔衛生学会元理事。創価学会関西副ドクター部長。副区長。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2021.9.17