ハンセン病と闘った歌人明石海人
ハンセン病と闘った歌人明石海人東京大学死生学・応用倫理センター研究員 松岡 秀明 唯一の歌集『白描』で表現した家族への葛藤、病の進行明石海人(一九〇一~三九)は、代表的な「癩歌人」――当時ハンセン病は「癩」と呼ばれていた―—である。海人は郷里で教員を務め結婚し娘がうまれ満ち足りた生活をしていたが、一九二六年に癩と診断されそれは一変する。この病気は当時治療が困難で、少なからぬ患者はその後失明したり、呼吸困難による窒息を免れるための気管切開を受けることになった。また、癩は「天刑病」(天から罰としての病気」や「国辱病」とも呼ばれて忌み嫌われていた。診断が下された日を追想して「雲母ひかる大学病院の門を出でて癩の我の何処に行けとか」と詠んだように、海人は行き場所を失った。この年に海人は明石の療養施設のはいり、二九年には離婚を余儀なくされる。三二年に瀬戸内海の島にある国立らい療養所長島愛生園に移る。ここで本格的に短歌に取り組んだ海人はめきめき頭角を現し、「癩歌人」として世に知られるようになった。長島愛生園の医師・内田守が尽力して三九年二月に改造社から出版された海人唯一の歌集『白描』は、二万五千部を売り上げ当時の歌集としてはベストセラーになる。『白描』は、「第一部 白描」と「第二部 翳」からなるが、第一部と第二部では歌風が大きく異なる。第一部が、癩と診断されてから、療養施設経て長島愛生園に入り、失明して気管切開を受けるまでの患者としての苦楽を経時的に読んでいるのに対して、第二部には海人が参加していた<日本歌人>主宰の前川佐美雄の短歌に影響を受け、「シルレア紀の地層は杳(とほ)きそのかみを生みの蠍の我も棲みけむ」といった幻想的な短歌が多い。出版されるとすぐに、『白描』は「癩歌人」の歌集としてセンセーションを巻き起こした。「第一部」から三首読んでみよう。 父母のえらび給いし名をすててこの島の院に棲むべくは来ぬ 長島愛生園で詠んだ一首。本名から出身地が分かると郷里の家族が迫害される可能性があったため、療養施設の患者たちは偽名を使っていたのだ。 拭へども拭へども去らぬ眼のくもり物言ひさして声を呑みたり 何かを言いかけて声を詰まらせたという下句の表現が、迫っている失明の恐怖を的確にとらえている。 また更に生きつがむと盲我くづれし喉を今日は穿ちて 気管切開を受けた日のことを詠む。失明したうえに咽頭切開し喉に管を通しても懸命に生きようとする姿に心を打たれる。出版当時は第一部が高く評価され第二部は等閑視されたが、時がたつにつれて一部と二部の評価は逆転していく。一九六四年には歌人の塚本邦雄が、『白描』の存在理由は「第二部の作品群によってのみ証される」とまで断じている。しかし、私は次のように考える。家族との葛藤、長島愛生園の自然や人々を適宜に巧みに織り込みながら、当時の寮所での患者の生活、不治の病の進行、癩患者への世間の差別、さらには生と死という人間を扱った「第一部」は高い価値を持つ、と。(まつおか・ひであき) 【文化】公明新聞2023.4.30