名将・織田信長を育て上げた幾多の苦難
天下統一の夢永禄3年(1560年)、強敵・今川義元を桶狭間で討ち取った織田信長は、尾張(愛知県)をほぼ統一することに成功した。そんな時、ある武将が信長のもとに、関東で手に入れたという鷹を持ってやってきた。鷹狩は当時、京都の公家らの間で流行しており、鷹を持つことは今や名実共に尾張の国主となった信長にとって、自らの権威を示すには格好のステータスであった。だが信長は「志はありがたいが、いずれ天下を取った時にいただくので、それまで鷹は預かってほしい」と受け取らなかった。これを聞いたその武士は、信長という男はなんという大法螺吹きであろうと嘲笑したという。信長はこのときまだ27歳の若者であったが、すでにその目は天下に向いていたのである。信長はそれから3年後、居城を清洲から美濃(岐阜県)に近い小牧山に移した。それは信長が、次の目標を隣国・美濃の奪取と決めたからである。だが当時、居城を移すということは大事業であり、家臣からの反発も強かった。事実、あの戦国の名将・武田信玄、上杉謙信も生涯一度も居城を移してはいない。信長とて、これまで慣れ親しんできた場所で暮らしたほうがどれほど楽だったかしれない。しかし、信長はあえて居城を移すことで、家臣たちに自らの美濃攻めへの並々ならぬ決意を示した。安住のなかからは何も生まれない。それどころか、いつしか攻める心を忘れ、守りに入ってしまう。それを信長は、自らと家臣たちに強く戒めたのであった。京を目指す信長にとって、美濃攻めはどうしてもやらなければならない戦であった。信長は小牧山城を起点にして、攻めに攻めた。だが、美濃は国主・斉藤氏を中心によくまとまり、兵も強かった。そのため、攻めても攻めてもなかなか成果は上がらず、いたずらに月日ばかりが過ぎていった。そんな信長の苦戦の様子を見た、一族で犬山城主の織田信清が、斉藤氏と図り反旗を翻した。信長にとって最も苦しい時であったが、彼は絶対に諦めなかった。ここで負けてしまったら、今日まで必死に戦ってきたことがすべて無意味になる。今は耐え忍び、相手が音を上げるまで、攻めて攻めて攻め抜くしかない。信長は、犬山城の周囲の城を次々と攻め落とすと、その勢いで一気に犬山城を攻め、城主・織田信清を追い出した。そして、三河(愛知県東部)の徳川家康、近江(滋賀県)の浅井長政と同盟を結び、美濃を包囲したのである。さらに、美濃攻めと平行して、信長は斉藤氏の重臣の調略にも力を入れ、敵の内部の切り崩しを図った。最後は言論戦で相手の心を変える戦いに出たのである。一見、それは時間のかかる戦いではあったが、確実に相手にダメージを与えることを知悉していた。信長は時を作り、時を待った。そんな中、信長の調略で美濃三人衆と呼ばれる斉藤氏の重臣三人が、ついに信長に付くことを表明した。ここに、斉藤氏の結束が崩れたことを見た信長は、一気に斉藤氏の本城・稲葉山城を攻め落とすことに成功した。永禄10年(1567年)8月、信長34歳のことであった。信長は実に7年間、耐えに耐え、美濃を落とすことに成功した。信長はここから「天下布武」の印を用い、美濃を拠点に怒涛の勢いで天下を駆け抜けていくことになる。美濃攻めで味わった多くの苦難は、いつしか信長を天下第一の武将に成長させていたのであった。(歴史研究家 三池純正)【戦国史に学ぶ 勝利の法則】