〝人間ブッダ〟の探究
第十三話 〝人間ブッダ〟の探究インドの仏教史は大きく分けて、①釈尊(前四六三~前三八三年)から始まった教団が、部派分裂することなく一つにまとまっていた紀元前三世紀ごろまでの原始仏教(初期仏教)、②前三世紀以降、部派分裂し権威主義的傾向を強めていった部派仏教(その中でも最も優勢であった説一切有部は小乗仏教と貶称された)、③紀元前後にその小乗仏教を批判し釈尊の原点に還ることを標榜して興った大乗仏教、④七世紀以降、呪術的世界観やヒンドゥー教と融合した密教――四つにまとめられる。中村元博士は、この中でも特に原始仏教の研究に取り組んだ。その研究方法として、原典の成立の古いものと、成立の新しいものや後世に付加されたものとを見分ける基準を明確にすることから始めた。「一般に韻文は古く、散文の多くは後世の付加」などの基準に基づき、韻文を中心に検討して、最初期の仏教の特徴を明らかにした。こうして、釈尊を人間離れしたしたものとする神格化を選り分け、歴史上の人物としての〝人間ブッダ〟の実像に迫り、最初期の仏教の実態を浮き彫りにすることに努めた。それによった、人間をありのままに見て、そこに「偉大なる人間」の姿を見いだし、仏教は本来、迷信や権威主義とは無縁で、道理にかなったものであったことを明らかにした。『サンユッタ・二カーヤ』第一巻には、釈尊の教えを聞いて、弟子たちが目覚めたという場面に必ず出てくるような定型句がある。 素晴らしい。君、ゴータマさんよ。素晴らしい。君、ゴータマさんよ、あたかも、君、ゴータマさんよ、倒れたものを起すように、あるいは覆われたものを開いてやるように、あるいは〔道に〕迷ったものに道を示すように、あるいは暗闇に油の燈し火を掲げて眼ある人が色やかたちを見るように、そのように君、ゴータマさんはいろいろな手立てによって法(心理)を明らかにされました。 原始仏典で弟子たちは、釈尊に「君」「ゴータマさんよ」と気軽に呼びかけていたのだ。原始仏典の『テーラ・ガーター』の第六八九偈には、「マヌッサ・ブータム サンブッダム」(manussa-bhutam sambuddham)と言う言葉が出てくる。Bbhutaは「~である」「真の」という意味なので、「人間(manussa)である(bhuta)ところの完全に目覚めた人(sambuddha)、あるいは「真の(bhuta)人間で完全に目覚めた人」の二つの意味に訳すことができる。弟子たちが、釈尊を「真の人間」「〔偉大な〕人間」として尊敬していたことが分かる。歴史上の人物としての釈尊は、「君」「ゴータマさんよ」と呼ばれても意に介することはなかった。釈尊は、決して傲慢ではなかったのだ。それは、自らが語っていた通り、「私は一人の人間である」「みなさん同様、一人の修行者である」「皆さんの善知識(善き友)である」という自覚が釈尊自身にあったからだ。権威主義的な考えは、本来の仏教とは無縁のものであった。釈尊を、人間離れした偉大で超人的な存在とする一方で、仏弟子は到底そこには到達しえないと説かれ、ましてや女人はけがれていて成仏できないなどと説かれたのは、後代の人々による神格化の結果であり、中村先生は「それは歴史的真実を歪めている」と結論されていた。人間離れしたものに神格化されたブッダと、〝人間ブッダ〟の両者を比較した時、一人の人間として「人間いかに生きるべきか?」を学ぶことができるのは〝人間ブッダ〟のほうからではないだろうか。 【今に生きる仏教100話】植木雅俊著/平凡社新書