子規が授けた俳号「漱石」
子規が授けた俳号「漱石」心理療法家「まどか研究所」主宰 原田 広美ここで、やはり1度は、正岡子規(1867~1902年)の話になる。そもそも漱石という名は俳号で、子規が漱石に授けた。子規は「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」で知られるが、30歳の頃から俳誌「ホトトギス」を編集した。子規と「ホトトギス」なくして、おそらく漱石が作家になる道はなかったであろう。同年齢の2人の出会いは、現東京大学教養学部に在籍中の22歳の時である。落語と漢文という、2つの趣味の一致があった。漱石にとって子規は、その後も、思春期に抑圧した「文学への夢」の象徴的な存在として、胸の内に君臨し続けたに違いない。出会ったとし、2人は盛んに文学論議をした。だが翌年、漱石は英文科、子規は哲学科に進む。そこから子規は、国文科に移籍。すでに結核の喀血があった子規は、人生の時間の限りを感じ、多くの執筆を試みる。故郷の松山では、後輩の高浜虚子や河東碧梧桐と、後の俳句革命運動に繋がる句会も始めた。また小説を書いて幸田露伴に批評を仰ぎ、大学も退学。一方、漱石は、進路を英文科に決めて「厭世主義」に陥り、やがて、「厭世観」を深める。それは「文学への夢」を抑圧し、「せねばならぬ」の進路を選んだ結果でもあっただろう。子規が国文科に移籍した明治24年には、「狂なるかな、狂なるかな、僕狂にくみさん」と、苦悩を書き送った。そして大学院に入る頃には「英文学に欺かれるごとき不安の念」を感じたが、それは自らを欺いた結果ではなかったか。その間、子規は小説では芽が出ないとわかると、坪内逍遥を訪ねて「早稲田文学」に俳句欄を設けて担当者になり、新聞「日本」の記者となり、やはり俳句欄を設けた。子規は、大きく人生を転換し、文学への行動を起こしたのだった。漱石は、大学院に籍を置きつつ、高等師範学校の教師になるが、その際、第一希望の学習院大学への就職は、アメリカのイエール大学を卒業した重見周吉に破られて落胆。その上に、自由な校風が自分に合うはずの第一高等中学校の採用試験も合格したが、2校に良い返事をしたために叱責を受け、思いは叶わずじまいだった。 【夏目漱石 夢、トラウマ―5―】公明新聞2020.8.14