友岡 雅弥講演3
「大聖人は「血脈」否定論者だった」 例えば御書の中に「霊山浄土」ていう言葉がありますね。あれを死んでから、ぷかぷか浮いて行く霊山浄土があるて思てる人がいてるんですね。そんなこと全然ゆってへんのですよ。「浄土」いう言葉ほど日本の仏教が誤解した言葉は無いんです。もともとのインドの経典では、「浄土」は、「現実を変革する」,「自分の住んでる地域を改善する」ていう意味の言葉なんです。菩薩は、地域を改善する仕事をするんだと。どんな修業をするか。砂漠に住んでいる菩薩達は砂漠に井戸を掘って果樹を植え、砂漠を緑化していく。それから、戦争の被災地に派遣された菩薩達は、施設に両親を戦争で無くした子供達を集めて大人になるまで育て続けるというんです。この地域を改善する実践が菩薩の「浄土」の行である。こういう事が書いてあったんですよ。これが中国に伝わって、中国人がその言葉を「浄土」と訳したんです。それは良かったんですよ。今から約2千年前、その当時の中国の言葉では「浄土」の「浄」というのはまさにその通り、「改善する」という意味やったんです、その通り訳したんです。でもね、言葉っていうのは時代と共に変わるんです。だから我々も御書を読む時も、今の時代のつもりで読んだらあきませんねん。(つづく)