授学無学人記品第九
第12回授学無学人記品第九■大要十大弟子で「多聞題一」の「阿難」と「密行第一」の「羅睺羅」、そして有学(まだ学ぶものがある者)・無学(学ぶものが無くなった者)の2000人の声聞たちに授記がなされます。釈尊にとって阿難はいとこ、羅睺羅は子に当たります。それでは内容を追ってみましょう。 ●シーン1阿難・羅睺羅、思います。〝私たちにも授記をしてくれればうれしいのに……〟そして二人は、座から立ち上がって、釈尊のもとに入って礼拝し、語ります。「私たちにも記別を授けてくだされば、私たちの願い、そして衆生の望みも満足することができます」その時、学・無学の弟子2000人も、同じ思いになり、立ち上がって合掌します。 ●シーン2釈尊は、阿難に告げます。〝来世に、山海慧自在通王如来という仏になる……〟そして、仏として出現する国土や時代などが語られます。発心して間もない8000人の菩薩たちは、それを目の当たりにして、疑問を抱きます。〝そうそうたる大菩薩たちが記別を授けられていないのに、どういう因縁によって、もろもろの声聞たちは授記されたのだろう〟釈尊は、人々の疑念を払うように、告げます。〝私と阿難たち、空王仏のもとで同時に発心した。阿難は常に多くの説法を聞くことを願い、私は常に精進した。ゆえに、私は先に仏になることができたのだ……〟阿難は記別を受け、大いに歓喜し、深心の本願を思い出すことができた。続いて釈尊は、羅睺羅に授記します。〝来世に、蹈七宝華如来という仏になる……〟そして、仏として出現する国土や時代が語られます。 ●シーン3釈尊は、居並ぶ学・無学の2000人を見つめ、その求道心を確信し、阿難に告げます。〝この2000人を見ているか〟〝もちろん、確かに見ています〟と、阿難は応じます。釈尊は、さらに語ります。〝阿難よ。この人たちは、無量の仏に供養し、同時に十方の国土で成仏することができる。皆が同じ宝相如来という仏になる……〟学・無学の2000人は、記別を授けられ、歓喜しました。――この「授学無学授記品第九」までで、声聞たちへの授記が終わります。 ■十界の成仏方便品第二から授学無学授記品第九までは、法華経迹門の中心的な部分となります。法理としては「開三顕一(三乗を開いて一仏乗を顕す)」が説かれ、物語としては、大部分が声聞への授記になっています。実は、声聞たちへの授記の物語を通して、十界互具の法理が示されています。池田先生は、「声聞への授記」について、次のように語られます。「『一切衆生への授記』です。声聞に、とどまるものではありません。全ての人が成仏できる。すべての人が、仏の智慧を譲り受けて、『人を救う人間』になれる。そういう考えが、阿羅漢も学・無学もなく、すべての声聞に授記されるということのなかに示されています」法華経以外の大乗経典では、二乗(声聞・縁覚)は、煎った種から決して芽が出ないように、仏種を断じられて永久に成仏できないとされていました。二乗の成仏が許された意義について、池田先生は語っています。「法華経に至って成仏を許された。これは、十界の成仏を明かしたことになるのです。なせなら、一人の声聞には十界の生命が具わっている。ゆえに、一人の声聞に授記したことは、その生命の十界が成仏できるということは、どの界の衆生も成仏できるということになる。反対に、声聞会が成仏できなければ、菩薩の生命の声聞界も、仏の生命の声聞界も成仏しないことになる」声聞たちの授記には、法華経の説く十界互具の哲理が輝いているのです。 ■三周の声聞声聞にも機根(仏法を理解し信じ実践する能力・資質)の差があり、方便品第二から授学無学授記品第九まで、それぞれに応じて説き進められ、記別が与えられました。用いられた説法は、法理を説く「法説周」、譬えを用いて説く「譬説周」、因縁を明かして説く「因縁周」の三つです。「周」とは「めぐる」という意味で、釈尊の説法を受ける→声聞が理解したことを語る→声聞の理解を釈尊が承認する→記別を受ける、という流れの一巡を一周といい、これを三度繰り返します(三周)。具体的には、法説周の声聞は智慧第一の舎利弗です。方便品第二で諸法実相などの法理を聞いて理解し、譬喩品第三で記別を受けました。次に譬説周の声聞は、須菩提、迦旃延、迦葉、目犍蓮の四大声聞です。釈尊が譬喩品第三で「三車火宅の譬え」を説きます。それに対して四大声聞は「長者窮子の譬え」で理解したことを示し、授記品第六で授記されます。因縁周の声聞は、まだ理解できない富楼那、阿若僑陣如、阿難をはじめ多くの声聞たちです。化城喩品第七で、三千塵点劫という遠い昔から師弟の因縁を説き、五百弟子授記品第八・授学無学人記品第九において記別が与えられます。釈尊は、声聞たちに法を理解させようと、あらゆる手段を使い、心を尽くして導いたのです。大事なことは、諦めずに、粘り強く、相手の理解を確認しながら、対話を深めていくことです。 多聞と精進分かるよりも変わること「授学無学人記品第九」では、釈尊と阿難の前世の因縁が明かされている箇所があります。私(釈尊)は阿難と一緒に、空王仏に仕え、同時に発心した。阿難は多聞(多くの教えを聞くこと)を願い、私は精進(絶えず修行に励むこと)に勤めた。だから私は先に仏になれた――と。釈尊が先に仏になれたのは、絶えず実践に励んだからであると記されています。戸田城聖先生は語っています。「講義を受け、また、御書を拝して、ただ分かったというだけでは、理である。いかに、その通りに信行に励んだかが大切である」「分かることよりも変わることだ」さあ、友の幸福を祈ろう!さあ、対話に挑戦しよう!――自他共の幸福を真剣に願える境涯に自らを変革し、仏法対話に邁進できる自分に革命することこそが、成仏の直道なのです。 『法華経の智慧』からあなたも仏と同じ境涯になれる「二乗成仏」が仏法の要なのです。そもそも声聞は、つねに釈尊の周囲にいた、最も身近な人々です。その人々を成仏させられないのでは、何のための仏法かということになりかねない。一方、二乗は「焦種」といって、仏種を焦がし亡ぼしているとされる。そういう二乗も成仏させられるということを通して、一切衆生が成仏させる法華経の力を示したのです。一切衆生に対して「あなたも私と同じ境涯になれる」と宣言いたのです。これが〝授記〟の心です。◇智者・愚者を問わず、妙法を説いていく。信じる者も信じない者も問わず説いていく。信じない者も、毒鼓の縁、いわゆる逆縁の功徳で救っていく。ここに真の〝授記〟があるのです。このことを実践してきたのが創価学会員です。学会のなかにこそ、法華経の心は生きているのです。(普及版〈上〉「五百で詩授記品 授学無学人記品」) 【Lotus Lounge法華経への旅】聖教新聞2020.1.14