「己心の外に法あり」
「我が心の外に有り」とする姿勢とは、まず一つが「責任転嫁」である。信心とは、「あれになろう」「これになろう」と揺れるのではなく、富士の如く堂々と聳え立つ確固たる自分を築くことです。ところが、「堂々たる自分を作る」ことを忘れてしまい、信仰が別の次元に歩みだし、知らず知らずのうちに「己心の外に法あり」の脇道に外れてしまうことがあります。例えば、"あの人が悪い""周りが悪い"などと責任を他人に転嫁だけしている姿は、祈っていても、自分の胸中の無明との戦いを避けています。ゆえに、心外に道を求めているのです。もう一歩深く、自分自身が変わることによって事態を改善していく。祈りはその原動力です。 【一生成仏抄講義「一念の転換-胸中の変革を忘れれば一切が『無量の苦行』に】71頁