「他者」と切り離された世界
詩人 文月 悠光 「トランプ氏の言葉は、詩人の文月さんにどう見えていますか?」元日放送の討論番組「ニッポンのジレンマ」(NHK・Eテレ)に出演した私は、司会の古市憲寿氏からこう尋ねられた。トランプ次期大統領(当時)による扇動的な言論パフォーマンス。本質的には詩も同じでは? と他の出演者の意見も受け、慎重に答えた。 「文学の言葉は、自分と向き合わせたりしてくれるもの。一方、トランプ氏の言葉は、『自分と関係ないもの』を選り分け、切り捨てるように感じる。過剰に目的化しています」。他者の声を関係ないものと見なして切り離す。そんな独善的な言葉が、なぜ人を動かしてしまうのか。 近頃、一部のウェブメディアを見ていて気になることがある。ライターが自身の傷つくリスクを一切負わずに、きわどい話を「見世物」にする態度だ。記事のテーマは、不倫、セックス、同性愛など多岐にわたるが、これらの扱い方は一貫して「他人事」。手ごろな対象を晒し者にして、「これが正しい」とばかりに自分の意見を押しつける強者の言動が目立つ。首を傾げてしまう。対象とそこまで距離をとるなら、なぜ互いの違いを尊重しないのか。なぜ持論を振りかざす? 多くの記事は、アクセス数を稼ぐことが目的のため、表面的に「まとめ」る方が炎上しやすく、都合がいいらしい。ネットにも良質な読み物は沢山あるが、「反応をわざと煽るなんて」と、同じ発信する立場として虚しくなる 記事はSNSを通じて、多くの人に拡散される。その過程で、少数者の声は無視されてしまう。同じタイムラインにいなければ、その声は「存在しない」も同然だからだ。正に、私たちの世界は「他者」と切り離されつつある。そのことによる恩恵や息苦しさを、誰もがはっきりと意識するようになったとき、私たちを取り巻く「言葉」はまた変化するだろう。人々の心を映す鏡として。 【言葉の遠近法】公明新聞2017.1.25