山頭火が歩いた熊本
山頭火が歩いた熊本井上智重 分け入っても分け入っても青い山 俳人の種田山頭火(1882~1940年)は大正から昭和にかけて熊本市で暮らし、旅を重ねて多くの句を残した。そのほとんどが五七五のリズムや季語などの定型にとらわれない、いわゆる自由律俳句だ。だからといってリズム感や季節感がないわけではない。独特のリズムがあり、四季を感じさせる山河の風景がある。区や日記の言葉に触れるたび頭にはその映像が浮かぶが、撮影で再現しようとしても俳句には及ばない。「分け入っても分け入っても」の反復のように、山頭火は、『万葉集』の頃から日本の詩歌が持つリズムを縦横に駆使した。その心地よさが世代を超えて心に響くのだろう。 若葉若葉かゞやけば物みなよろし 熊本は山頭火の第二のふるさとだ。山口県防府で造り酒屋を営む実家が破産。大正5年(1916年)4月、妻サキノと5歳の長男・健を伴い、俳友を頼って新天地を熊本に求めた。市内下通長丁目の二階屋を借り、愛蔵書を並べて「雅楽多」という古本屋を開く。額縁や絵葉書、映画スターのブロマイドを扱った。簡素であか抜けて、熊本では手に取りにくい文学書もあったそうだ。熊本を「森の街」と呼んだ山頭火が、青葉若葉の下で働く人々を見ているうちに、つい涙ぐみ、得たのが先に挙げた句。「句は人格の光であり、生活の力である」とも書いている。愛児句も随分、作った。「病む児寝入れば大きな星が一つ見ゆ」「味噌汁のにほいおだやかに覚めて子とふたり」「親子顔をならべたりし今し月昇る」など、父子のしみじみとした情愛が伝わってくる。息子の健は長じて大手炭鉱に勤務。旅する父への仕送りを欠かさなかった。 新しい俳句運動を始め、九州新聞で小さな投句欄も持った。「けさも雨なりモナリザのつめたき瞳」などの見本句を挙げ、「新しい句を募る、内容形式すべて自由」と呼び掛けている。それでも文学での立身を諦めきれず、妻子を熊本に残して上京。だが、関東大震災に遭い、ほうぼうの体でサキノの元に戻る。泥酔し市電を止めてしまったことが機縁になって始まったのが漂泊の旅だ。天草、阿曽、人吉――。大自然を歩くことで、「うしろ姿のしぐれてゆくか」などの句が次々に誕生した。 句作へ導いた〝第二のふるさと〟 夕立が洗つていつた茄子をもぐ 先頃、拙著『いつもとなりに山頭火』(言視舎)を上梓した。熊本日日新聞で1年間、季節を追いながらつづった連載「きょうもとなりに山頭火」がベースになっている。ステイホームの時期、全面的に書き改め編年的に並べ替えるうち、自分の中に山頭火が棲みついたようだ。雑草のようにしなやかさで、優しいまなざしを忘れず、愛嬌浴。そんな、今を生きるヒントを耳元でささやいてくれるのだ。山頭火が若者も含めて広く知られるようになったのは昭和46年(71年)の秋ごろだという。ちょうど半世紀。付き合いの長い〝隣のおじさん〟みたいなそんざいふぁ。自分が年を重ねたからか、最近は旅する孤高の山頭火というより、故郷に結んだ庵の家庭菜園で茄子をもぐ山頭火に心引かれる。山頭火は昭和15年10月11日未明、愛媛・松山の一草庵で往生した。昨年は没後80年、命2022年は生誕140年。きょうも私たちの隣を歩きながら、親しく語りかけてくる。(ノンフィクションライター) いのうえ・ともしげ 1944年、福岡県生まれ。佐賀新聞社に勤務の後、熊本日日新聞で阿蘇総局長、文化部長、編集委員室長などを歴任。2010年から16年まで熊本近代文学館(現在のくまもと文学・歴史館)館長を務める。著書に『山頭火意外伝』『漱石とハーンが愛した熊本』など。 【文化】聖教新聞2021.11.8