組織と将器
新選(撰)組のことを調べていたころ、血のにおいが鼻の奥に留まって、やりきれなかった。ただこの組織の維持を担当した者に興味があった。新選組以前には、日本に組織といえるほどのものはなかったのではないかと漠然と考えていた。あらためていうまでもなく、組織というものは、ある限定された目標をめざしてナイフのようにするどく、機械のように無駄なく構築された人為的共同体である。江戸期の藩というものはそうではない。 『ある運命について』(「奇妙さ」)*土方の新選組における思考法は、敵を倒すというよりも、味方の機能を精妙に、尖鋭なものにしていく、ということに考えが集中していく。これは同時代、あるいはそれ以前のひとびとが考えたことのない、おそるべき組織感覚です。個人のにおいのつよすぎるさむらいのなかからは、これは出てこないものです。 『手掘り日本史』(「歴史のなかの日常」)*騎兵というものを考えてみたいと思います。これは、集団的に使うと非常に強い力を発揮する。そして、その機動性を生かすと、思わぬ作戦を立てることができる。半面、騎兵はガラスのようにもろくて、いったん敵にぶつかるとすぐ全滅したりもする。ですから、この機動性を生かして、はるか遠方の敵に奇襲をかけるという場合には、よほどの戦略構想と、チャンスを見抜く目をもたなければならない。天才だけが騎兵を運用できるわけです。『手掘り日本史』(「歴史のなかの人間」)*「敵の動きは、本能寺ノ変により浮足立っております。これ自然の理ではありませぬか」「敵のみを見ている」「とは?」「味方を見ぬ。そなたは敵という一面しか見ぬ。味方が見えぬのか。物の一面しか見えぬというのは若いのだ」 『夏草の賦 下』*徳川体制というのは人間に等級をつけることによって成立している。身分(階級)を固有なものとし、それを固定することによって秩序を維持した。その人間が生まれついた固有の階級からそれより上の階級にのぼることは、ヨーロッパの封建体制ほど厳しくなかったにせよ、極めてまれな例外に属する。ただ、ぬけみちがある。庶民から侍階級になろうとおもえば、運動神経のあるものなら剣客になればよい。そういう志望者のうち何万人に一人ぐらいというほどの率で、どこかの藩が剣術師範として召抱えてくれぬでもない。 『花神 上』*兵法の真髄はつねに精神を優位へととってゆくところにある。言いかえれば、恐怖の量を、敵よりも少ない位置へ位置へともっていくところにあるといえるであろう。 『十一番目の志士 上』*【人間というもの】司馬遼太郎/PHP文庫