日本人の意識
自己という考えは、日本人には西洋人よりも受け入れやすいように、筆者には感じられる。無意識と明確に区別された存在として、意識の中心としての自我を確立することは、西洋の文化のなした特異な存在ではないかと思われる。そして、その確立した自我を心全体の中心で見誤るほどに、彼らの合理主義が頂点に達したころに、ユングが自己などということを言い出したのではないか。そのため、彼は心の中心が自我ではなく自己にあることを何度も繰り返して主張している。しかし、実のところ、自己の存在は東洋人には前から知られていたことではなかったろうか。というよりは、東洋人は意識をそれほど確立されたものとは考えず、意識と無意識とを通じて生じてくる、ある漠然とした全体的な統合性のようなものを評価したのではないだろうか。(略)西洋人は自我を中心として、その自身にひとつのまとまった意識構造をもっている。これに対して、東洋人のほうは、それだけではまとまりをもっていないよう要でありながら、実はそれは無意識内にある中心(すなわち自己)へ志向した意識構造をもっていると考えられる。ここで、自己の存在を念頭におかないときは、東洋人の意識構造の中心のなさのみが問題となり、日本人の考えることは不可解であるとされたり、主体のなさや、無責任性が非難されたりする。自分の無意識内に存在する自己へと志向することは、実のところ至難のことなので、日本人の多くは、その自己を外界に投影し、そのためならば、命を棄ててもよいという考えになってしまう。戦争中に日本の兵士がきわめて勇敢でありながら、いったん捕虜となってしまうと、まったく相手に味方して、日本に不利なことを平気ですることが、よく指摘されている。このことは西洋人にとってまったく不可解であった。これは、自己が天皇に投影されている間は、そのために死のうとするのであるが、捕虜となったときは、その投影はまったく崩れたわけであり、そのとき、彼が親切にしてくれた敵方の将校に自己の投影を向けるとき、事情は一変するのである。最近は日本人論が盛んとなり、日本人が西洋人に比していかに異なっているかが、日本人を全体に相当自覚されてきたように思われる。 【無意識の構造】河合隼雄著/中央公論社