文の力で国を動かした末松謙澄
文の力で国を動かした末松謙澄大東文化大学文学部教授 山口 謠司憲法を起草、国際世論を味方に昨年、没後100年を迎えた末松謙澄(一八五五~一九二〇年)という人がいる。おそらくあまり知られていないだろう。枢密院議員・伊藤博文の次女と結婚し、明治・大正期に活躍した政治家だが、謙澄は、政治家としてよりもさらに深い力で、近代国家として「日本」を創った人だった。「言葉」の力によってである。謙澄の業績の一つは、大日本帝国憲法の起草したことである。憲法を書くということは、どれほど大変なことだっただろう。まだ「憲法」という言葉さえなかった時代に、英語、フランス語、ドイツ語などの法律用語を日本語に訳して条文を作らなければならなかった苦労は、想像に余りある。もう一つ大きな業績は、日露戦争の時にヨーロッパを席巻した日本への悪評を、英語やフランス語での講演、論文、書籍、新聞紙上での論説で打ち払ったことである。「黄禍論」と呼ばれるが、明治維新以降、驚くべき速さで近代化を成し遂げた日本を、ヨーロッパ諸国は脅威と見ていた。大国ロシアに挑むほどの力があるとすれば、日本は、次いでヨーロッパ諸国に向かうのではないかという恐怖を抱かせたのだった。この難関を救ったのは謙澄である。日英同盟を通じてイギリスの世論を味方にしようと働きかけ、さらにロシアと緊密だったフランスに対して日本の正当性とロシア側の不当を論じ、アメリカ大統領ルーズベルトのもとに、岳父・伊藤博文を通じて金子堅太郎を派遣するよう提案した。演劇や文学、美術の発展に貢献 歴史は〝今ここから〟を胸にだが、謙澄の業績で忘れてはならないのは、文化面での仕事である。伝統芸能の「歌舞伎」を守り、「新劇」と呼ばれる演劇を作り出す道を創ったのも謙澄であり、言文一致を唱えて、坪内逍遥、二葉亭四迷、夏目漱石へと繋がる新しい「文学」を開拓した先駆者でもあった。謙澄は、現在「演劇」と呼ばれるものを言語、所作、演出など総合面で改良することの必要性を最初に説いた。さらに、イギリス留学中、大英博物館に所蔵されているウィリアム・アンダーソンの日本絵画コレクションの解説を翻訳し、「日本美術史」研究の端緒を築いた。「われわれに歴史は無い。我々の歴史は、今、ここからはじまる」という伊藤博文の言葉があるが、それを実現したのは、謙澄だった。『源氏物語』を英訳して、世界で最も古い長編小説が日本にあることを知らしめたのも謙澄であった。さらに、イギリスで近代の実証主義に基づく「歴史学」を学び、新しい客観的な歴史への視点が必要だと言い、三十年の時間を掛けて『防長回天史』という大著を編んだ。これは、長州藩及び同藩士たちが、明治維新前後で行ったことを透徹した歴史家として描き出した画期的な歴史書である。明治維新以降の「歴史」を「今、ここからはじめる」といった岳父の言葉に、謙澄は生涯を掛けて邁進した。様々な分野の先駆者で、それが軌道に乗ればすぐ次にやるべきことに目を転じた謙澄は、近代国家「日本」を形作るための大プロデューサーだった。今日、私たちが生きている「日本」のベースを創った人として忘れてはならない人であろう。出身は、福岡県京都郡稗田村(「前田村」とも。現・福岡県行橋市)、長州とは敵対関係にあった小倉藩の出身である。さまざまな軋轢、困難をものともせず、つねに明るい顔をして大きな仕事をしていった謙澄。我が国の歴史になくてはならない人への思いに、思わず胸が熱くなる。 やまぐち・ようじ 1963年、長崎県生まれ。中国山東大学客員教授。博士(中国学)。大東文化大学卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文学科研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。近著に『明治の説得応・末松謙澄』(集英社インターナショナル)など多数。『日本を作った男 上田万年とその時代』(同)で第29回和辻哲郎文化賞受賞。 【文化】公明新聞2021.6.30