桃山画壇の雄に上り詰めた天才絵師
桃山画壇の雄に上り詰めた天才絵師 美術ライター 高橋伸城能登・七尾から京へ決して順風満帆な人生ではありませんでした。その名がようやく協の都に知れ渡るようになるのは、50代に入ってからのこと。また、その作品が研究者の注目を集め、美術史で重要な位置を占めるようになるのは昭和の初め以降の話になります。長く不遇の時を過ごしながら、今や桃山文化を代表する一人となったこの絵師こそ、長谷川等伯(1539~1610)です。生まれは、現在の石川県にあたる能登の七尾。16世紀半ばといえば、戦国時代の真っただ中です。もともと武士の家に生まれた等伯は、染色を生業としていたと思われる長谷川家に養子に出されます。生家も養家も法華衆であった等伯は、遅くとも20代の頃には、「信春」という名前で絵を描いていました。これまで発見されている作品のほとんどは、宗教的な役割を担わされた仏画です。実際の用途も、図像ルールも、そして描くべき対象もある程度決まっている。現代の枠組みに当てはめると、いわゆる「画家」というよりも「職人」に近いといえるかもしれません。ただ興味深いのは、「信春」として活動している頃から、自分の名前とともに年齢を作品に書き記しているところです。仏画にこのような落款を入れるというのは、ほとんど前例がありません。自分の手で描いたものとして責任を負うと同時に、その仕事に誇りを持っていたのでしょう。事実、神仏の立つ台座などの細かな描写には、後に「等伯」として名を馳せる絵師の片鱗がうかがえます。等伯が故郷の七尾を離れ、京都に定住したのは1570年代と推定されています。長谷川に伝わる資料によれば、京都の町中で「門弟多くにぎやかなる絵屋」を営んでいたようです。その中には、等伯の力量をしのぐともいわれた久蔵をはじめ息子たちも含まれていました。 狩野派のライバルに等伯が京都に来るにあたって足がかりとしたのは、生家の菩提寺とゆかりのある本法寺だったと考えられています。中でも、同寺の住持を務めた日通とは昵懇でした。この同じ法華衆である絵師と僧侶の対話から、日本最古ともいわれる画論が生まれています。等伯の語った内容を日通が書き留め、編集した『等伯画説』です。そこには、等伯が理想とする中国の画人に加え、日通の出身地である堺の人物が多く出てきます。画業と信仰が分かちがたく結びついていたことを示す一例といえるでしょう。等伯が大きく出世するきっかけになったのも日通やその周辺にいた堺人だったと思われます。天正17年(1589年)に、京都の大徳寺にある山門の改修が行われます。この時、新しく増築される2層部分の天井画と柱枝を任されたのが、51歳の等伯でした。寄進者は、茶人の千利休。彼もまた堺の出身だったのです。当時の最大画派であった狩野派が等伯を警戒し始めるのも、この頃のことです。当時の様子を伝えるエピソードが残っています。大徳寺山門の工事が始まるのとちょうど同じ時期に、五所でも大規模な造営が行われていました。永徳(1543~1590)をはじめとする狩野派一門が障壁画を担当していたにもかかわらず、建物の一部を等伯にもやらせるという話が持ち上がった。それを聞きつけた永徳は「長谷川という者にこの仕事をやられるのは困る」と、実力者に直々に申し入れ、事前に介入を防いだのです。絵師の仕事を巡って狩野派と長谷川一門の間に争いがあったことは疑い有りません。その一方、両社が単純に敵対関係にあったとも思えないのです。御所の件があった翌年には、狩野派と長谷川家の絵師が同じ現場で働いています。そして何より、狩野家も法華衆でした。 新たな生の始まり京都で広くその名が知られるようになった頃、等伯のもとに大きな仕事が舞い込みます。天正19年(1591年)8月、秀吉の嫡男である鶴松がわずか3歳で夭折。幼子の菩提を弔うために、祥雲寺という寺が建てられることになったのです。天下人との密接なつながりを考えると、障壁画の制作は本来なら狩野派にまかされるばずだったのでしょう。しかし、その長である永徳は前年にこの世を去っていました。いよいよ、等伯率いる長谷川一門に白羽の矢が立ったのです。完成した客殿の各部屋には、四季の草花を描く襖絵があしらわれました。当時は合計で100枚近くあったようです。たわわに花びらをつけた桜から、ほのかに雪を抱く松まで、それぞれに固有の姿を謳歌しながら、全体で命の移ろいを表しているようにも見えたことでしょう。現存する六つの画題のうちの一つが、国宝に指定されている「楓図」です。中央下部から左上部へと斜めに身をよじる幹。右に伸びる枝には、萩が幾葉にも絡みついています。辺り一面には、白菊や鶏頭、木犀が茂る。いずれも季節意外に思いシンボルを背負わされていません。一枚の葉がそのままの姿で、そこにあるだけでいい。秀吉の権力を誇示する代わりに、大切な子を失った一人の人間の悲しみや願に寄り添う。鶴松の命日である秋を描くのに、これほどふさわしいやり方はなかったことでしょう。祥雲寺は約1年で落成し、文禄2年(1593年)の8月には鶴松の三回忌法要が予定されていました。ところがその2カ月前、今度は等伯自身が愛息の久蔵を失います。26歳という若さでした。久蔵が急逝した原因は何だったのか。すべての襖絵が完成したのはその前だったのか。等伯はどういう気持ちで息子の亡骸と向き合ったのか。当時の状況を伝える資料は残されていません。一つ確かなのは、等伯が身近な人の死をその後も大事にし続けたことです。久蔵の七回忌に当たる年に、等伯は一枚の絵を本法寺に寄進します。その背面にはすでに他界していた養父母や先妻、久蔵や別の子どもと思われる人物の法名が記されると共に、今を生きる自身や後妻の名前も一緒に並べられていました。いくつもの別れと対峙してきた等伯は、埋め合わせることができない喪失を心に抱えながら、絵を描き続けたのでしょう。「楓図」の左上で、一度は下に沈んだ枝が勢いよく上方に伸びています。苦しみの土壌に芽を出した大樹は、画面の外で新たな生を生きているのでしょうか。 亡き息子を偲ぶ 秋景の傑作長谷川等伯筆〈楓図壁貼付〉 安土桃山時代・16世紀 国宝 4面 紙本金地着色各175.5㌢×139.5㌢ 京都・智積院所蔵 たかはし・のぶしろ 1982年、東京生まれ。創価大学を卒業後、英国エディンバラ大学大学院で芸術理論、ロンドン大学大学院で美術史学の修士号を取得。帰国後、立命館大学大学院で本阿弥光悦について研究し、博士課程満期退学。 【日蓮大聖人御生誕800年慶祝「法華宗の芸術」<第3回>】聖教新聞2021.2.4